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怨時空

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 赤ん坊の顔は見る見る成長してゆく。徐々に大きくなって、目鼻立ちがしっかりとしていった。最初、詩織の顔になった。次ぎに香織、そして、桜庭は悲鳴を上げた。恐怖で気が狂いそうだった。身の毛がよだった。
 あの少女だ。熊本で殺したあの少女の顔がそこにあった。桜庭が中条と二人で、抱きかかえて崖上から海に投げ込んだ、あの少女だった。少女がにやりとして、あのしわがれた声で言った。
「私の世界にようこそ、桜庭。この瞬間がくるのを待っていたよ」
桜庭は恐怖で失禁してしまった。涙と洟で濡れた唇を動かした。
「ここはどこなんだ」
「ここは、私が死んだ場所だ。あのホテルはとうに取り壊され、今は別のホテルが建ち、ここはその壁の中、地上1メートルの所だ」
「地上1メートルだって」
「そうだ、空に生じた歪み、塵ほどの大きさもない、亜空間だ。現世と来世のちょうど境目に出来た私の城だ。境目にはあやふやな領域がある。私の憎悪と復讐心がその領域の空を歪ませて、この世界を作った」
「何を言っているんだ。さっぱり分からない。私はこの世の人間だ、こんな訳の分からぬ世界には用はない。さあ、帰してくれ。お願いだ、元の世界に俺を戻してくれ。頼む」
「いいや、お前はこの世界の住人だ。私とお前、そしてここで私の胴体を形作っている篠田。この世界には、この3人しかいない」
「馬鹿な、そんな馬鹿な、俺は40年も生きてきた。それがすべて幻とでもいうのか。この目の前にある俺のこの手も幻とでも言うのか」
「なにー、お前の手だって、手がどうした」
目の前にかざした手が、指先から砂が零れように崩れていった。
「ぎゃー」

 世界が崩れてゆく。桜庭が40年生きてきた世界が一瞬にして崩壊したのだ。桜庭は気が狂ったと思った。目を閉じ、ひくひくとと震えながら狂気が去るのを待った。こんな現実などありあえない。悪い夢だ、幻覚をみているのだ。

 十分に落ち着いたつもりで、恐る恐る目を開けた。目の前には自分の手が見える。ほっとして視線を上げて、再び桜庭は悲鳴をあげた。まだ少女が憎悪を剥き出しにして睨んでいたからだ。絶望とともに桜庭が叫んだ。
「俺の人生は何だったんだ。40年の俺の人生は幻で、あんたの復讐のために、この瞬間のためにだけあったとでも言うのか」
「お前の人生なんて私が吹き込んだ記憶に過ぎない。今回、お前の人生の始まりは、あの時効成立の時だ。あの時計が零時をさした瞬間から始まったに過ぎない」
「それじゃあ、この会社の連中も存在しないのか。志村もデザイナーの福田も幻なのか。」
「そうだ、お前の記憶を借りて、お前の心に映し出した幻だ」
「泉美も、香子もそうなのか」
突然、少女の顔が目まぐるしく動き、成長していった。動きが止まって、女が桜庭に微笑んだ。桜庭は悲鳴をあげた。香子だ。香子もあの少女が歳を重ねた女だったのだ。

 またしても顔が動き、徐々に太り出した、ふくよかな顔になってゆく。少しづつ印象が違ってきた。そして止まった。銀座のバーで出会った頃の泉美だ。それを見て、桜庭は一際大きな声をだして泣きだした。
 顔は急激に太っていった。その変化は桜庭も知っていた。一緒に暮らしていたからだ。突然、顔がぐしゃっと潰れた。桜庭は正視できずに、顔を両手で覆った。そして迷子になった子供が母親を捜して泣くように、しゃくりあげながら母を呼んだ。
「お母さん、お母さん。助けて、助けて、お母さん。こんなの現実じゃあない」
「桜庭、見ろ、私を見るんだ。現実を見せてやる」
見ると、泉美の顔が急激に動いて痩せてゆく。皺が増えて、最後には桜庭の母親になった。我を忘れて叫んだ。
「お母さん、助けて、ここから連れ出して、頼む」
桜庭の一縷の望みは、裏切られた。母親の口からあのしわがれた声が響いたのだ。
「私はお前の母親ではない。本当の母親の記憶は消してやった。お前がこの世で唯一愛した女だったからな」
こう言うとけたたましく笑い続けた。
 桜庭は体中の力が抜けた。もはやこの現実を受け入れざるを得ない。ハンカチを取り出し涙と洟を拭い、心を静めた。あのしわがれ声の主に交渉するしかないのかもしれないと覚悟を決めた。桜庭は震えながら聞いた。
「本当の私の人生はどうなってしまったんですか」
「お前は、6年前に死んだ。本来であればあの世に戻って次ぎの出番を待っていればよかった。だが、私がそれを阻止した。中条も同じだ。中条はもう少しで自分の創った地獄から抜け出す寸前だった。それを私が掻っさらった。私の創った地獄に引き込んだ」
「私はどんな人生を送ったのです」
「社会的に成功し、老後は孫達に慕われ、好々爺を演じきった。幸せな一生だった。葬式の時は、みんな泣いていた。死して後、そんなお前を待っていたのが、この地獄だったとは、誰一人想像だにしなかっただろう」
桜庭は糸口を探していた。何とかこの世界から逃げ出さなければ。
「ところで、さっきから言っている、空って何です。」
「全てを包み込み、全てを生じさせている本源だ。宇宙そのものだ。私はその空の一部を我が世界に変えた。死んでも死に切れなかったからだ。お前たち二人がのうのうと生きて行くことをどうしても我慢がならなかったからだ」

 桜庭は、やはりという思いを抱いた。やはり、少女の怒りや恨みを解消するしかないのだ。そうとなれば話は早い。
「お嬢さん、あれは事故だったんです。それに私は貴方に手をかけていません。あの時、貴方の首を絞めた中条なんです。私はただ口を塞いでいただけです。もしそれで貴方の気が済むのであれば、謝ります。本当に申し訳ありませんでした」
そう言って桜庭は土下座した。大きな溜息が聞こえた。その溜息の意味を探ろうと視線を上げた。桜庭はその光景を見て、恐怖に打ち震え悲鳴を上げた。
 5人の女達が桜庭を睨んでいる。詩織、香織、香子、泉美、そして母親である。桜庭が心から愛した女達だった。全員が口を揃えて言い放った。
「お前は、まだこの世界から出られない。今一つ試練が残っている。私が味わった死の恐怖が残されている」
 母親が大股で近付き桜庭の左肩つかむと、窓辺まで引きずっていった。桜庭は必死で抵抗を試みたが、その力はこの世のものではない。桜庭の右手つかみレバーを握らせ、窓のガラス戸を開けさせた。
 詩織は机に駆け上りぴょんと飛んで桜庭の首にしがみついた。香織は桜庭の右足を持ち上げ、香子と泉美が尻を押し上げた。桜庭は一瞬の出来事にあっけにとられた。首が窓の外に出た。15階から見下して、恐怖に身の毛が弥立った。
 首にしがみ付いていた詩織が両手に力を込めて首を後に向けた。桜庭は中条に向かって涙ながらに助けを求めたのだが声はでない。中条が呆然と見詰めている。秘書が叫んだ。
「どうなさったのです、部長。止めて下さい。……」
必死で握っていた窓のレバーを香子が指の一本一本剥がしてゆく。レバーから手が離れた。桜庭は奈落の底を見た。女達が桜庭の体をビルの外に放り出したのだ。地面に向って落ちてゆく。悲痛な叫びも、何かをつかもうとする努力も空しく、桜庭は奈落の底に落ちていった。

 へたりこむ秘書に向って中条が言った。
作品名:怨時空 作家名:安藤 淳