怨時空
「山口先輩に、してやられた。俺の企画を蹴って電通に鞍替えしやがった。俺は赤っ恥をかかされたんだ。ちくしょう、山口の野郎。殺してやりたい」
「それで左遷というわけ? 」
「ああ、その通りだ。経営陣も期待していた企画だ。もう、俺は死ぬっきゃない。福岡支店なんて真っ平だ」
「私は福岡行ってみたいわ。福岡に支店を出すのよ。いい考えだわ。違う所で生活するのも悪くはないもの」
「冗談じゃない。九州に左遷されて戻ってきた奴なんていない。支店とは名ばかりの10人たらずしかいないし、それにもましてせこいビルだ。生きがいも糞もない。小さな仕事を御用聞きみたいに取ってくるだけだ。くそ、冗談じゃない」
桜庭はカバンを投げ捨て、玄関に取って返した。エレベーターに乗って一階のジョナサンに直行だ。動悸が高鳴る。上野はどうしているだろう。そのことばかりが気になって呼吸が苦しくなる。ジョナサンでコーヒーを注文する。そして携帯で上野にサインを送る。
呼び出し音を三回鳴らして切る。ジョナサンで席を確保したという合図だ。そして、
泉美に電話を入れる。
「もしもし、俺だ」
「どうしたの、もう酔いが冷めたの」
「いや、そういうわけじゃない……。そうじゃない……。と言うか……俺はもう駄目だ。このまま、死ぬ。この屋上から飛び降りて死ぬ」
「あんた、冗談言っているんでしょう。いい加減にしてよ。もう眠るんだから」
「ああ、分かった。あばよ、またいい男を捕まえろ。じゃあな」
そこで電話を切った。後は待つだけだ。じっと春日通りに面した窓に目を凝らす。
じりじりと待った。目を凝らした。塵一つ落ちては来ない。20分ほど経ったろうか、ふと、上野がジョナサンの入り口に立っているのを見て、桜庭はぎょっとなった。上野が桜庭を見つけ近付いてくる。凝視する桜庭の目には、その歩みは、まるでスローモーションのように映った。「いったい何が起こったというのだ」桜庭が心の内で叫んだ。
席に着くなり上野が声を殺して言った。
「桜庭、お前の女房は屋上に来なかった。俺は15分待った。だが、これ以上待ったところで来るはずもない。だから非常階段で降りてきた。だがな、桜庭」
ここで言葉を切り、桜庭の目を覗き込みながら続けた。
「約束は約束だ。金は返さん。お前はこう言ったはずだ。不慮の事故が起きて殺せなかったとしても、それはそれで仕方がないってな。お前の女房が来なかったというのは、これは不慮の事故だ。お前の女房は、自分で考えているほど、お前のことを心配していなかった」
俯いたまま、弱弱しい声で答えた。
「ああ、分かっている。金のことはそれでいい。兎に角、もう一度、計画を練り直さなければならない」
緊張の糸がぷつんと切れるとともに、落胆は桜庭の思考力をねこぞぎ奪ってしまったらしく、何の考えも浮かばない。そして次に続く上野の一言は、桜庭に計画の頓挫を思い知らすことになる。その言葉とはこうである。
「俺は、やることはやった。だから、もうご免だ。もし別の計画をたてるのだったら、別の男を捜せ。兎に角、俺は、やることをやって、お前との約束は果たしたんだ」
マンションの部屋に戻ると、泉美の壮大な鼾が天井を揺るがしていた。
翌朝、桜庭は何事もなかったように新聞を読み、トーストを齧る。泉美が淹れてくれたコーヒーを一口飲み、
「おい、濃すぎるぞ。苦くて飲めねえよ」
と言って、いつもの重苦しい沈黙を振り払い、会話のきっかけを作った。
「私は濃い目が好きなの。苦いと思うなら、少しお湯で割ればいいでしょう」
「それより、お前は冷たいな。俺は本当に自殺するっきゃないと思っていたんだぞ。屋上の手すりを越えて、何度も春日通りにジャンプしかけたんだ」
「あんたが自殺するだって?冗談言っているんじゃないわよ。あんたはどんなに間違っても自殺するような男じゃないわ。それより、いつから行くの、福岡へ。私、先に行って良い物件を探そうと思っているの」
「おい、お前、本気なのか。冗談じゃねえぞ。福岡支社に行くくらいなら、俺は会社を辞める。だってそうだろう。あそこは言ってみれば姥捨て山なんだ」
うだうだと言葉を発しながら、桜庭は、福岡支社左遷という嘘をどう収めるか考えていた。
泉美が自殺したのは頓挫したあの殺人計画から一月ほど経ってからだ。マンションの屋上から飛び降りたのである。帰宅の遅い夫に苛立って、発作的に屋上に駆け上ったらしい。階段で擦れ違った隣の主婦が、「自殺するだ」と口走ったのを聞いている。
桜庭は、その日は、深夜まで山口を接待した後、タクシーで香子の家に行って泊まった。そして、翌日、帰宅して泉美の死を知ったのである。警察で遺体と対面した。顔が潰れてぐしゃぐしゃだった。主婦の証言から、自殺しか考えられず、取調べもなかった。
しかし、どう考えても納得出来ない事実が二つあった。一つは、泉美が言ったという「自殺するだ」という言葉である。泉美は出身こそ宮城県だが、東京の暮らしの方が長く、そんな方言のきつい言葉を吐くとは思えないということである。或いは、かっとして思わず出てしまったとも考えられるが、多少疑問が残る。
今一つは、泉美の自殺そのものだ。桜庭は、その性格を知り抜いていた。他人を責めても決して自らを責めたり省みることのない女。絶望より先に、その原因がたとえ自分にあったとしても、そのきっかけを作った人間に怒りを爆発させる人間。それが泉美だからだ。自殺など考えられなかった。
桜庭はマンションを売って、香子の屋敷に移り住んだ。木の香りに満ちた豪華な屋敷、若くて美人の妻、まるで夢のような生活だった。子供はすぐになついた。香子との新婚生活は刺激的で、屋敷の門をくぐった時から下半身が心地良く疼く。
泉美の言っていたことも経験した。香子は家事が嫌いだった。食事はつくるものの、後片付けと皿洗いを桜庭にせがんだ。
「お願い、ねえ、お願いよ」
そう言って哀願する香子には、確かに逆らい難かった。何度か繰返して、とうとう後片付けは桜庭の仕事になったのである。
哀願する香子の顔を思い浮かべ、思わず吹き出した。あれが、泉美の言っていた人を自由に動かす不思議な力なのだと分かって可笑しかったのだ。桜庭は皿をスポンジで洗いながら声を出して笑った。居間の方で声がする。
「ねえ、何を笑っているの。ねえ、どうしたの」
「何でもないよ。ちょっと思い出し笑いをしていたんだ」
「何よ、気持ち悪い」
「それより、先に子供達を風呂に入れたら。さっき、風呂のスイッチを入れておいたから、もう沸いているぞ」
「何言っているのよ。食べたばっかりでお風呂に入ってはいけないのよ。お風呂に入ると血液が体全体に回って胃の方が手薄になって消化不良になってしまうの」
「ほう、そうかいそうかい。分かりました、分かりました。ゆっくり休んでから入って下さい、お、く、さ、ま」
そう言いながら、桜庭は幸せを噛み締めていた。心の中で泉美に語り掛けた。死んでくれて有難う。お前の分まで生きてやるよ、と 。
第五章 復讐