怨時空
「そんな事出来ない。貴方を諦めるなんて考えられない。何とか離婚できないの。お金なら私が都合つけるわ」
「いや、無理だ。いくら金を積んでも、マンションを譲るといっても絶対に離婚届に判は押さないだろう」
「それじゃあ、どうするの、私はどうすればいいの。一生、日陰者で、あの人の嫌がらせに耐えていかなければならないの」
「分かった、何とかする。だからもう少し待ってくれ。何とかするから」
「何とかするって、何をどうすると言うの。ずっとその繰り返しじゃない。一向に事態は変わっていないわ。何とかする、待ってくれ。その言葉をもう何度聞いたと思っているの」
「そう責めないでくれ、まさか殺すわけにはいかないだろう」
こう言った瞬間、桜庭はごくりと生唾を飲み込んだ。殺すという言葉にリアルな響きがあった。香子も黙り込んでいる。桜庭は頭を激しく振ってその思いを心の奥底に閉じ込めた。
そして自分でも驚くほど苛苛した声で言った。
「とにかく、今日は行けそうもない。それに、何とかする。何とかするつもりだから、もうこれ以上何も言うな」
一瞬、香子は息を呑み、桜庭の怒りをやりすごした。そして静かに言った。
「分かったわ。今日は会えないのね、そのことは諦めるわ。それに、今日は貴方を責めすぎたみたい。本当に、御免なさい」
そう言うと、受話器を置いた。桜庭は携帯を見詰め、大きなため息をついた。見ると便器に吐しゃ物がこびりついている。泉美に対する憎悪がむくむくと膨らんでゆく。
その日から、桜庭の心に殺意が芽生えた。仕事中にも、桜庭の心に住み着いた悪魔が囁く。そうだ、殺してしまおう。それが一番だ。しかし、完全犯罪でなければならない。警察に捕まって、刑務所暮らしなんてまっぴらだ。香子だって愛想尽かすだろう。
泉美の横に座っていても、その囁きは聞こえる。とにかくアリバイだ。それを何とかしなくては。まして香子に俺が殺したと疑わせるのも、今後の幸せな家庭生活の障害になる。香子をアリバイ工作に使うなんてもってのほかだ。では、どうする?
犯罪の臭いのしない事故死が理想的だ。まてよ、などとあれこれ思いを巡らせ、そして最終的に思いついたのが自殺にみせかけた殺人だった。考えに考え抜いたのだ。
「何、考え事しているのよ」
泉美の声に驚いて、桜庭は我に返った。その日は、いつものように遅く帰ったのだが、めずらしく泉美は起きていた。桜庭は素面で寝室に入る気がせず、ソファーに腰掛けウイスキーを飲んでいた。その横で、泉美はピーナツを口に放り込みながら、テレビを見ていたのだ。
「いいや、何も考えてはいない。ただ、ぼーっとしていただけだ」
泉美がにやにやしながら言った。
「この女、死んでくれねえかな、なんて思っていたんじゃない。どお、図星でしょ。ねえ、いっそ殺したら。包丁持って来てやろうか、台所から」
「馬鹿なことを言うんじゃない。俺を犯罪者にしたいのか、お前は」
憎悪と怒りが頭の中で渦巻いているが、そんなことおくびにも出さず答えた。殺意を気付かれては完全犯罪なんて出来るはずもない。桜庭は立ち上がりながら、言った。
「少し夜風にでも当たって酔いを醒ましてくる。先に休んでいなさい」
泉美のこめかみに血管が浮く。
「あんたに言われなくても寝るわよ。ふん」
あれを期待して起きていたのは確かだ。桜庭は、だぶついた肉を揺すりながら歩いてゆく後姿を眺め、背筋に悪寒が走った。ドアを閉めるバタンという音が二人の居た空間を引き裂いた。
15階建てのマンションの屋上から下を眺めた。深夜だというのに、春日通りはヘッドライトの流れが川のように暗闇に帯をなす。交通量はまずまずだ。ドライバーは、誰かが歩道に落ちてくれば、気付かないはずはない。
問題は泉美を屋上に何と言って呼び出すかだ。「おい、屋上に来て見ろ。星が綺麗だぞ、なんて言おうものなら、すぐさま見抜かれて「私をそこから突き落とすつもりなの」などと厭味を言われかねない。まあ、それはいい。それより、問題は上野のことだ。
既に上野と接触し、泉美殺害の手はずは整えてある。上野は大学の演劇部の後輩で、資産家の一人息子だったが、バブル期に不動産に手を出し、今は零落している。問題は上野の口の軽さだ。絶対に秘密は守ると言っているが、これが信用ならないのだ。
上野は気が弱く、力もない。もしかしたら力なら泉美の方が強いかもしれない。その上野が脅迫者にならないとも限らないのだ。報酬の一千万円など、すぐに使い切ってしまうだろう。その後が問題なのだ。
巷で話題になっている、4、50万で殺しを請け負う東南アジア系の殺し屋とのコネクションはないが、いずれ手蔓を探す必要がある。上野が脅迫者に豹変する前にコストの安い殺し屋見つけ出し、そして上野も殺す。桜庭はそう決意した。
実行の日は、来週の金曜日だ。手はずはこうだ。桜庭はいつものように午前零時に帰宅する。そして、今日のように屋上で酔いを醒ますといって部屋を出る。屋上には行かず1Fの24時間営業のジョナサンに入る。そこで酔い覚ましのコヒーを飲む。
桜庭が携帯で泉美を屋上までおびき寄せる。屋上には桜庭の靴が揃えて置いてあり、それを見て泉美は桜庭がビルから飛び降りたと思い、手すり越しに下を覗きこむ。上野はその後ろから近付き用意したブロックで後頭部を殴打し、靴を脱がせ、屋上から突き落とす。そして桜庭の靴を泉美のそれに置き換える。
桜庭は、今か今かと窓越しに春日通りを見詰めている。そこに、どさっと人間が降ってくる。そこで「おい、人間が上から降ってきた」と騒ぐのだ。何人ものアリバイの証言者と店を出て、遺体を取り囲む。ふと、気付く振りをして遺体にすがりつき、「何故だー、泉美― 」と泣き崩れる。これほど完璧なストーリーはない。桜庭は自殺の目撃者なのだから。
その日はとうとうやってきた。朝から何も手につかず仕事どころではない。時間をもてあまし、苛苛と過ごした。仕事が終わり、飲んで帰らなければならないのだが、行く先はいくらでもあるのに、今日に限ってどこも気が進まない。
桜庭は、気を静めるために歩くことにした。東銀座から晴海へ、晴海から銀座へ、どこをどう歩いたか記憶にない。酒の自動販売機を見つけると、ワンカップを買って一気に飲んだ。へべれけになるまで飲みまくった。
自宅のある後楽園まではタクシーを利用した。泉美は起きているだろうか。起きていればそれはそれでいい。寝ていれば酔った振りをして起こす。前後不覚になって、もしかしたら抱いてくれるかもしれないと期待を抱かせるのだ。
そして、いつものように屋上で酔いを醒ましてくると言う。今日は泉美を誘うか台詞も考えていた。ドアベルを鳴らす。どさどさという泉美の足音が聞こえる。どうやら起きているらしい。ドアが開き、ふてぶてしい泉美の顔が覗く。
桜庭は、叫んだ。「おい、俺の人生もこれで終わりだ。福岡支店に左遷が決まった。ラインから外されたんだ。もう、終わりだ」
泉美が素っ頓狂な声で答えた。
「どうして、何か失敗でもしたの。いったいどうしたと言うのよ」