身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~
中殿、この国では最高の女性。それが一体、何だというのだろう? 春花が国王に嫁ぐことで、父は出世を約束され、たくさんの黄金が贈られたそうだ。それでは、自分は金で買われたも同然の身ではないか。
「それほど幼くては、初夜に怯えるのも道理か」
王は優しい笑みを浮かべる。いつもこんな風に笑っていてくれれば良いのに、王は時として春花をまるで射竦めるかのような強い視線で見つめる。あの眼に見つめられると、春花は王の前から逃げ出したい衝動を懸命に抑えなければならなかった。
「こちらへ」
再度手招きされ、春花は息を呑んだ。
いや、行きたくない。
私は王妃なんて、なりたくてなったわけじゃない。この国でいちばん偉い女性だと言われても、嬉しくなんかない。言うことをきかなければ父が仕事をできなくなると脅かされて、仕方なく王妃になっただけなのに。
「こちらでおいで」
王の声音は別段、苛立っている風でもなかった。その態度や表情から見て、特に怒りは感じられない。そのことに多少の勇気を得て、春花は王に恐る恐る近寄った。
今をおいて、自分の望みを聞いて貰う機会はない。これは絶好の機会だった。
口を開こうとしたまさにその時、春花の身体はまたしても軽々と抱き上げられた。
「あっ」
今度は洩れ出る悲鳴を堪え切れなかった。王は春花を膝に載せ、顔をまじまじと見つめてくる。父以外の男の人の膝に乗るのなど、生まれて初めてのことだ。
知らず身体が熱くなり、その中に頬まで火照ってきた。
「美しいな。こうして間近で見ると、ますます似ている」
褒め言葉らしいとは理解できたが、最後の?似ている?という科白は何を意味するのか判らなかった。
「あ、あの」
?あのこと?を言わなければと思うほどに、胸の鼓動は速くなり、焦りは深まる。
再度、王の端正な面が接近してくる。何度めかなので、今度は春花も口づけられるのだと判った。
咄嗟に顔を背けた瞬間、?中殿?と少し低い声で呼ばれ、春花は我に返った。
「申し訳ございません」
私ったら、また、国王さまを怒らせてしまったみたい。でも、口づけ(キス)なんて、好きでもない男としたくない。王は確かに噂どおりの美男だ。春花が見ても、噂は誇張でも何でもないと思う。実家の父や兄弟たちなどの平凡な顔立ちを見慣れているから、よく判る。
でも、この方はもう三十九歳におなりなのだ。もちろん、王の御年は予め聞かされている。三十九歳という年齢は別に年寄りというわけではないけれど、十七歳の初婚の娘が嫁ぐには、いささか年が行き過ぎている。
もちろん、友人の中にも、後添いで先妻の子がいる年配の男の許に嫁いだ者がいなかったわけではない。しかし、そんな幼なじみを見る度に、気の毒にという同情を抱いて見送っていた。
現に、その娘は両班とはいえ、里方が落ちぶれて極貧に喘いでいるため、両班の体面を保つだけの暮らしもできない有様だった。そのため、友達は結納金として多額の金を貰い受け、五十に近い男の許に嫁いでいった。その男には先妻や側妾の産んだ子どもが総勢八人いた。
美男で知られる三十九歳の国王が相手なのは、春花はすごぶる幸運だと思うべきなのだろう。しかし、相手が王であろうと、裕福な両班であろうと、再婚男であることに変わりはない。しかも、自分だって、他の側室たちの産んだ娘が四人もいる男の後妻になったのではないか。
この結婚は望んだものではない。その想いは、どうしても春花の心から消えなかった。
「中殿は私に抱かれるのが嫌なのか?」
抱かれるというのがよく判らないなりに、恐らくは夫婦の契りを結ぶための行為であろうと漠然と察しはつく。
直截に問われ、春花は蒼褪めた。?あのこと?を話すなら、今しかない。心を決めて口を開こうとしても、流石に国王相手になかなか言い出せる話ではない。
春花が思い悩んでいる間に、王の手がそろりと伸び、春花の夜着の胸のふくらみをそっと包み込んだ。
「―!」
抵抗しないのを了解と受け取ったのか、王の手は遠慮がなくなり、夜着の上から捏ねるように胸を揉み始める。胸に布を巻いているとはいえ、強く揉まれると、乳房の先端が尖ってくる。それはごく自然な反応であったけれど、春花は初めての体験に戸惑い、狼狽えた。
―いやっ。
叫びたいのに、今の自分には叫ぶことすら、許されない。涙が溢れてきて、ほろりと白い頬をころがり落ちた。
それでも、手の動きは止まらない。王は動揺している春花には頓着していないようだ。
しゅるりと、前結びになった夜着の紐を解かれ、春花は更に焦りを滲ませた声音で告げた。
「お話があります。殿下、お話を聞いて頂きたいのです」
「ん? 何だ」
初めて王の手が止まり、春花を見た。
「―」
いざ話し出そうとすると、また止まってしまう。すると、王の手が再び動き始め、上衣の合わせを開かれた。布を幾重にも巻いた胸が現れ、春花は更に慌てた。
「あのっ、お話というのは」
早口で言うのに、王が春花を一瞥した。刹那、春花は背中にヒヤリと氷塊を当てられたような気がした。
―怖い。また、あの眼で私をご覧になっている。
射貫くような、魂まで絡め取るような烈しいまなざしに春花は怯えた。その視線の先は布を巻いただけの胸に注がれている。
王はまた視線を動かし、春花の胸に巻いた布を解くことに意識を向けたようだ。布がするすると器用な指で解かれ始め、春花は涙声になった。
「お願いです、お話を聞いて下さい」
泣くまいと思っても、涙は堰を切ったように次々と溢れ出た。
「どうした?」
そこで初めて王は春花が泣いているのに気づいたようである。
「そなた―、泣いておるのか?」
心もち愕いたように言い、すぐに胸の布を解くのは止めてくれた。
「私は領相大監に言われて、王室に嫁いで参りました」
王の端正な面が強ばったように見えたのは、気のせいだろうか。だが、一度発した言葉を取り戻せはしない。春花は言葉を選びながら慎重に話し始めた。
「私の父は成均館で教師をしております。両班とはいえ、家門もさほど高くはありませんし、ましてや、力も持たない中級両班にすぎません。そんな私が何故、突然、王妃にならなければならないのか。今も納得がいかないのです」
「つまり、そなたは望んで私に嫁いで参ったのではないということなのだな」
固い声音で問われ、春花は頷いた。ここまで来たら、国王の怒りを買おうとも、最後まで話を聞いて貰わなければ意味がない。
「ご無礼は重々承知で申し上げております。国王殿下はお心の広いお方、太祖大王以来の聖君と皆が申しておりますゆえ、そのお慈悲に縋ってみようと思いました。どうか私の願いをお聞き入れ下さいませんでしょうか」
「そなたの願いとは?」
冷え冷えとした声、まなざし。先刻の烈しいまなざしが焔を宿していたなら、今の春花に向けられる視線は、まさに氷の欠片を含んでいるとしか言いようがない。
「私には幼い頃から夢がございました」
「ホホウ、夢とな」
夢という言葉に、王がわずかに頬を緩める。それに勢いを得て、春花はひと息に言った。
作品名:身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~ 作家名:東 めぐみ