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身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~

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 王は春花を抱えたまま小卓の傍に戻り、そっと彼女を降ろした。その隙に春花が離れようするのを見越したように、背後から腰に手が回され、抱き上げられ膝に載せられた。
「名は何と申したか」
 馴れ馴れしく身体には触れてくる癖に、妻となる女の名前すら憶えていないのだ。そう思うと、春花の心に淋しさと絶望が寄せてきた。
 国王さまには、いまだに忘れ得ぬ女人がいる。それはこの国の民なら、誰もが知っていることだ。和嬪蘇氏、国王の寵愛を一身に受けた世にも幸せな寵姫の噂は春花のような少女ですら、知っている。
 この方は亡くなられた和嬪さまをいまだに強く愛され、忘れておいででない。私は押しつけられた王妃だから、殿下は私を疎ましく思われている。
 その想いはずっと春花の中に居座っていた。父が最後までこの結婚に乗り気でなかったのも、それが理由だったのではないかと春花は信じている。
 いまだに亡くなった妻を忘れ得ず悲嘆に暮れている男の許に後妻に入って、幸せになれるはずがない。人が人を想う心は、たとえ国王夫妻であれ、下々の民だとて同じだ。相手の心を幾ら望んでも得られる見込みがないと判り切っているのに、どうして大切な娘をそんな男に嫁がせられるだろう?
 だから、国王さまは婚儀を挙げた後でさえ、妻となった自分の名すら憶えておいででない。その事実は春花を打ちのめしたが、逆に心のよりどころにもなった。
 国王さまにとって、私は形だけの妻。だから、実質的には夫婦になる必要もないのではないかと期待しているのだ。そうすれば、春花がこれからひそかに計画に移そうとしていることもいっそうやりやすくなるというものである。
「春花と申します」
「春花、良き名前だ。春に咲く花のようなそなたには似合っている」
 国王は満足げに頷いた。
「酌をしてくれ、改めて夫婦の契りを結ぶ誓いの酒だ」
 夫婦の契りというのが具体的に何を意味するのかは判らないまま、それでも、春花はその言葉に潜む響きや、王の眼に浮かぶ熱っぽい光に恐怖を抱かずにはいられなかった。
 王の手が腰にしっかりと回されていて、身動きもできない。
「この場所からでは、お酌はできません」
 消え入りそうな声で言うと、王は笑った。
「それもそうだな」
 やっと解放してくれたので、急いで膝から降り、少し王から距離を置いて座った。
「どうぞ」
 銚子を捧げ持ち差し出された盃を満たすと、王はひと息にすべてを煽る。
「今度はそなたの番だ」
 逆にその盃を差し出してきた王を、春花は大きな眼を一杯に見開いて見つめた。
「私は、お酒は飲めません」
「少しでも良いから、飲みなさい。飲まないと、私に抱かれるのは難しいだろう」
 え、と、春花はまた理解不能な言葉を聞いて、小首を傾げた。
 王がまたひそやかに笑う。
「そなた、先刻からずっと震えているではないか」
 狼狽していた春花はいつしか王が傍近くまで寄ってきていたことに気づかない。
「そんなことは」
 ないと言おうとしたその瞬間、いきなり引き寄せられ、唇を塞がれてしまった。
「―!」
 あまりにも展開が早くて、ついていけない。恐慌状態に陥った春花は両手で王の逞しい胸を懸命に押した。
 だが、大人の男と十七歳の娘の力では所詮、比べものにならない。抵抗を力で封じ込められている間に、春花のわずかに開いた口の隙間から液体が注ぎ込まれた。
 それは少量ではあったが、咽を滑り落ちた途端、焼け付くような感触を胃の腑で感じ、春花はあまりの苦しさにもがいた。
 ずっと唇を塞がれているので、呼吸もできない。やっと王の唇が離れた時、春花は眼に涙を滲ませていた。
「苦しかったか。だが、初夜が怖くて震えているようでは、少しくらい酔っていた方が良いぞ」
 王がまた盃に酒を満たし、口に含む。手招きされ、春花は蒼白になって首を烈しく振った。また、あんな真似をされるなんて、絶対にいやだ。
「どうしても呑めと仰せなら、自分で呑みます」
 震える声で言うと、王から盃を受け取り横を向いて唇に押し当てた。ひと口呑んだだけで、またカッと火傷したような熱さが腹の底に染み渡る。
 く、苦しい。
 春花は胸を押さえ、その場にうち伏した。コホコホと咳が続き、内臓が灼けるように熱い。咳き込み続けていると、また引き寄せられた。王の顔が近づき、熱い唇が押し当てられた。再び口中に流れ込んでくる酒に噎せて、春花は涙眼になった。
―どうして、こんな酷いことをするの?
 呑みたくないお酒をこんな風にいきなり口移しで呑まされて、苦しいのに止めて貰えない。春花が苦しんでいるのは王にも判っているだろうのに。
「大丈夫か?」
 優しい声音だ。こんな酷いことをする人のものとは思えない。心配するくらいなら、最初からしないで欲しい。春花は恨めしく思った。まだ咳き込みながら、それでもやっとの想いで首を振った。
「参ったな、まさか、酒も飲めないと思わなかった。そなたの父は随分と箱入り娘に育てたのだな」
 父のことを持ち出されて、ムッとしたけれど、相手が国王では逆らえない。春花が唇を噛み、うなだれていると、言われた。
「顔を上げなさい」
 それでもまだうつむいていると、やや強い口調で言われる。
「顔を上げるんだ」
 怒らせてはいけないと思い、顔を上げた。と、強い視線に射貫かれ、春花は恐怖に身体を強ばらせた。
 そういえば、と、改めて思い出す。以前にこの人と初めて対面したときは、桜が咲く頃だった。そのときも、王は自分をこんな風に見つめていた。まるで幼い頃、隠れて難しい本を読みふけっていたのを母に見つかったときのような気持ちだ。
 私、何も悪いことはしていないのに。
 王は最初から春花を睨みつけるような烈しいまなざしで見つめてくるのだ。春花はそれが怖くて堪らない。たとえ誰かの妻になるつもりがないことを抜きにしても、こんな怖い人と一緒にいたくないと思う。
「そなたは幾つだ?」
 しばらく張りつめた沈黙に押し潰されたそうだったが、やがてそれは唐突に破られた。
「十七になりました」
「十七?」
 王の形の良い眉がかすかに顰められた。
 何かいけないことをまた言ってしまったのだろうか?
 王を怒らせてしまったのかと怯えていると、王が溜息をついた。
「まだ若いとは思っていたが、そんなに若かったとは」
 この人は自分の年も名前も知らなかった。春花の心がまた絶望という名の色に染まっていく。幼い頃から誰にも嫁ぐつもりはなかった。でも、もし仮に嫁ぐとしたら、良人は妻一人を守り、妻は良人を尊敬し、そんな美しい夫婦関係が良いなと漠然と夢見ていたのだ。
 間違っても、後宮という場所に閉じ込められ、自分以外のたくさんの妻妾を侍らせ、その女たちに産ませたたくさんの子どもがいる男の妻になんて、なりたくないと思っていた。
 中殿候補に名乗り出ることを渋っていた頃、領議政が父と自分に投げつけた言葉を忘れはしない。
―たかだか成均館の直講風情の娘など、本来なら、側室どまりでもたいした出世だ。それが、ペク家の娘として、この国の母という至高の地位に昇れるのだから、ありがたいと思わなくてはな。