身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~
―これで良いのか、明姫?
ユンは室外に出ると、想いを振り切るように小さく首を振った。
領議政が用意した美しき贄。明姫が亡くなってから、少なくとも数人の側室たちと幾夜も過ごし、子をなしてきた。彼女たちの誰ひとりとして心から愛したわけでもなく、また、男としての欲求を満たすためでもなかった。
ただ、国王の義務というだけで種馬のように機械的に女たちを抱き、子を作った。だが、それは彼女たちが皆、領議政の息のかかっていない家門の娘たちだったからだ。
明姫を殺した領議政と大妃の息の掛かった娘など、今になって抱く気にもなれない。たとえ王妃を迎えたとて、憎い領議政の養女だけは妻として認めるつもりはないと決めていた。少なくとも春花を見るまでは頑なにそう思い込んでいたのに。
しかし、自分のその決意が果たして、どこまで保つか今のユンは自信がなかった。そして、恐らくは領議政もユンのその心を十分に見越して明姫に生き写しの娘を用意したのだ。領議政の企みが判っているだけに、それに乗るまいと思いながらも、いずれ自分がまんまとその罠に填ることも判っている。
明姫が亡くなって十二年が経つというのに、まだ自分はこんなにも彼女を求めている。狡賢い領議政はユンのその心を彼自身よりよく理解していたのだ。
愚かな。あの娘がいかに明姫に似ていようと、明姫でないことは判っているのに。
ユンは大きな息を吐き出し、空を振り仰ぐ。
「殿下」
中宮殿の階(きざはし)を降りると、案じ顔の黄内官(ファンネガン)が待ち受けていた。かつて大殿内官であった黄孫維は既に齢七十を過ぎ、数年前に勇退した。今は都の外れの屋敷で悠々自適の隠居生活を送っている。
代わって養嗣子の黄維俊が今はユンの傍近くで仕えている。明姫の腹心であった洪尚宮こと香丹(ヒャンダン)もまた明姫が亡くなったのを機に宮仕えを辞めた。その一年後にユンの仲立ちでかつてから恋仲であった黄維俊に嫁いだ。維俊は内官ゆえ子どもは望めないが、それでも、いまだに新婚当時と変わらず仲睦まじい夫婦ぶりだと聞いている。
明姫はヒャンダンを姉のように慕っていた。自分が廃されて郊外の寺にいたときですら、我が身の心配よりもヒャンダンと黄内官の恋の行方を気にしていたほどなのだ。
自分と明姫の恋は実を結ばなかったけれど、黄内官とヒャンダンは無事に恋を実らせた。惚れた女と生涯添い遂げる幸せを得られた黄内官を羨む気持ちがないといえば嘘になる。
だが、明姫ならば、素直に二人の幸せを祝福してやるに違いない。明姫は、そういう女だった。だから、ユンも明姫を傍から離したくないほど熱愛した。
「いかがでしたか?」
何はと問われなくても、王妃となる娘との対面を指しているのは判っている。明姫とヒャンダンが姉妹のようだったように、黄内官とユンもまた主従という絆を越えて友人に近いものがある。
「洪尚宮が見れば、愕くぞ」
明姫の親友でもあり、またとない忠実な侍女であったヒャンダンが春花を見れば、腰を抜かすかもしれない。いや、情と忠義心に厚い彼女のことだから、明姫が生き返ったかのような春花をひとめ見ただけで、感極まって泣き出すかもしれない。
だが、実際に春花をまだよく見てない黄内官は何のことか判らず首を傾げている。
ユンはそんな彼に曖昧な微笑で応え、何も言わずに歩き出した。黄内官を初めとする他の内官や尚宮、女官一同も慌ててユンの後を追った。
稚(おさ)な妻
国王直宗の婚礼が盛大かつ厳粛に執り行われたのは、その年の七の月に入ったばかりのある日であった。
国王が儀式に着用する礼装―連ねた玉を垂らした冠を被り、正装した王は三十九歳の壮年に達している。若い頃からその美麗な容貌はつとに聞こえていたが、年を経てもなお、その端正な面に変わりはなかった。かえって、二十代の頃にはなかった重厚さと辺りを圧倒するかのような存在感を増している。
秀でた額と通った鼻筋、男にしては端正すぎるほど整った美貌にいささかの衰えもないが、三十を過ぎてから蓄え始めた髭だけが唯一、変わった部分といえるかもしれない。
傍らに寄り添う新しい中殿は十七歳。禁婚礼が発布された当時は十六歳で、対象年齢の上限ぎりぎりであった。国政に重きをなす権力者領議政は、新しい王妃の年齢について
―主上(サンガン)さま(マーマ)のお歳と新中殿さま(セイチュンジョンマーマ)のお歳を考える時、ご夫婦として、お二人の歳があまりに違いすぎるのもいかがなものかと考えた。
と、言い訳めいた発言をしたものの、これについては、新しい王妃の容貌を眼にした誰もが一瞬にして悟った。
何故、領議政がこの娘でなければならないと思ったのか。
新中殿は何と十一年も前に亡くなった直宗の寵妃にうり二つであったからだ。
明姫の実の伯母である崔尚宮は依然として提調尚宮(チェジヨサングン)(後宮女官長)として王妃不在の後宮を取り仕切っていたが、その崔尚宮でさえ、まともに新しい王妃の顔を見たときは、亡くなった姪が生き返ったのかと一瞬錯覚しそうになった。あまりに似ているため、鳥肌が立ったものだ。
―よくもこれだけ亡き和嬪さまに似た娘を見つけ出してきたものだな。
と、人々は陰で囁き合った。裏を返せば、それだけ領議政の執念深さを物語る証でもある。
―領相大監(テーガン)は本気だ。
誰もがそう思った。今度こそ、ペク・ヨンスはすべてを賭けて勝負に出ようとしている。かつての直宗の寵姫に生き写しの娘を王妃として直宗に近づけ、王がこの若い王妃に夢中になるのを待っている。
明姫に似ているということは、新しい王妃もまた絶世の美少女だ。
煙るような長い睫にくっきりとした黒曜石の瞳、珊瑚色の形の良い唇、透き通るような雪の肌、和嬪こと明姫が生きていた頃から仕えていた女官たちは、いまだに明姫を忘れていなかった。下働きの女官にまで隔てなく声をかけ、優しい気遣いを忘れない明姫を皆、心から慕っていたのである。
当時の明姫を知る者たちは王妃の婚礼用正装をした春花を見て複雑な想いになり、中には落涙する者もいた。直宗と新しい中殿が夫婦固めの盃を交わし、すべての儀式を終え、宮殿の真正面最上段に立つと、宮殿前に整列した百官が一斉に声を張り上げた。
「国王殿下と新中殿さまに心よりお祝い申し上げます」
領議政ぺク・ヨンスの第一声を皮切りに、皆が
「千歳(チヨンセ)、万歳(バンセ)」
と手にした勺を捧げ持ち唱和する。百官の声が重なり、その場の厳粛な空気を打ち震わせた。寄り添う国王と新王妃はどこから見ても似合いの美しい一対だ。
直宗は聖君と謳われる偉大な王だが、私生活においてはあまり恵まれていない。殊に女運は良くなかった。最初の中殿は領議政の実の娘で即位と同時に嘉礼を挙げたものの、夫婦仲はよそよそしく、子どもにも恵まれなかった。
直宗自身が見出し、熱愛した寵愛第一の側室和嬪は難産が元で腹に王の御子を宿したまま亡くなった(と、いうことになっている)。最初に迎えた二人の側室の中の温嬪は第一王女をあげたものの、死産であった。
作品名:身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~ 作家名:東 めぐみ