身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~
あのようなことも自ら生命を絶った原因なのかもしれない。大人げないことを言ったと後悔してみても取り返しはつかなかった。
また強引に身体を開かされると知り、春花は怯えて衝動的に自害をしてしまったのかもしれない。確かに手首を縛ってまで抱いたのは、やり過ぎだったと反省していた。
多量の血を失った顔は蝋のように透き通り、最早、死んでいるのかとすら思うほどだ。明姫に生き写しの寝顔は嫌が上にも彼に十一年前の出来事を思い出させた。
彼の母大妃に猛毒を呑まされ、多量の血を吐いて死んだ明姫。彼の腕の中で最後に言っていた。
―何度でも殿下にお逢いするために生まれ変わります。そして、必ず殿下をお探しして、また恋をします。
明姫を失ってから気の遠くなるような年月を数え、今、再び心から愛する女とめぐり逢えた。しかし、天は無情で、今度は両想いというわけにはいかなかった。娘と同じ歳の若い妻は自分を嫌い抜き、身体に触れられるのですらいやがった。
年甲斐もなく激情に任せて抱いてしまったら、挙げ句、妻は絶望して自ら生命を絶つという思い切った行動に出た。
このまま強引にまた抱けば、今度こそ春花はまた生命を絶つかもしれない。やっと取り戻した愛しい女を自分のせいで失うわけにはゆかなかった。
この時、彼は惚れた女とずっと一緒にいるためには諦めねばならないものがあると知ったのである。
ユンが春花を散歩に誘ったのは、それからひと月後、九月の終わりのある朝であった。
日中はまだまだ真夏並の暑熱だが、朝夕に吹く風は涼しく、確実に季節が夏から秋へとうつろいゆくのを肌で知る時季だ。
春花が意識を取り戻したその日から、ユンは中宮殿を訪れるのは一切止めた。その方が彼女を心身ともにゆっくりと休養させてやれると判断したからだ。
よく晴れた初秋の空がひろがる気持ちのよい朝だった。ユンは春花と並んで広大な庭園をそぞろ歩きながら、改めて眺めた。
こうして二ヶ月ぶりに見ると、春花と明姫はよく似ているが、微妙に違うこともよく判る。例えば髪の色とか肌の色とか。明姫の髪は少し茶色がかっていたが、春花の髪はどこまでも黒檀のように黒い。肌の色も春花の方が少し白いのではないのか。
元々別人なのだから、当然のことだ。そう思って見ると、今までは春花と逢う度にちらついていた明姫の面影が消え、本来の春花の姿がくっきりと浮かび上がってくるようであった。
「今日は大切な話があって、そなたを誘ったのだ」
「私も実は殿下に大切なお話があるのです」
春花が微笑み、ユンも笑った。
「そうか。では、中殿から話してくれ」
「いえ、殿下の方からお願いします」
ユンは頷いた。
「辛いことを思い出させてしまうかもしれないが、隠れ家での出来事について少し聞いて欲しい」
春花が何も言わないので、ユンは続けた。
「あのことは本当に悪かった。もう無理に抱いたりはしない。私はそなたが側にいてくれるだけで良い。もう愛する人をこれ以上、失いたくはないのだ。そなたがいやだというなら、私はそなたに指一本触れないと約束しよう。言い訳のようだが、女人を手籠めのように抱いたことはない。多分、そなたが相手だから、あのような愚かなふるまいに走ったのだろう」
物問いたげな視線を向けられ、ユンは柄にもなく頬が熱くなるのを感じた。
「つまりだな、その、私はそなたを好いているからだ」
娘と同じ歳の妻に赤面して告白する良人。どう見ても、あまり体裁の良いものではない。間違っても、領議政には見せたくない場面だ。
「そなたを失いかけて、私は初めて気づいたのだよ。大切なものを得、守るためには、時には引くことも大切だと」
春花が立ち止まり、ユンも歩みを止めた。
「可愛い」
無邪気な歓声を上げる春花の視線を辿れば、その先には薄紫の桔梗がひと群れ、ひっそりと咲いている。白い蝶が一匹、花に戯れかけるように飛んでいた。あたかも一幅の絵画を見るような風景である。
その笑顔を眺め、ユンは少年のように胸が時めくのを自覚した。こんな高揚した気持ちは実に久しぶりのような気がする。
彼はしみじみと思わずにはいられなかった。大切な人なら、その笑顔を見られるだけで良い、側にいてくれるだけで良い。この歳になって初めて、見守るだけの愛があることを知った。
たとえ身体を重ねることなくても、愛しい女を永遠に失ってしまうよりはよほど良い。
花を眺めていた春花が振り向いた。
「ずっと気になっていることがあったのですが、一つだけお訊きしても良いでしょうか?」
「私で応えられることなら、何なりと」
「私をご覧になる時、殿下は誰を私の中に見ていらっしゃったのですか」
予期せぬ問いに、ユンは眉を寄せた。しかし、考えてみれば、春花に真実を話す良い機会だとも思えた。想いに耽る彼の耳を春花の声が打つ。
「殿下のご寵愛をかつて一身に集めていたといわれる和嬪さまですか?」
明姫に生き写しの春花から明姫の名が出るのは、何か奇妙な気もする。
ユンは即座に否定した。
「それは違う」
続けて少しの逡巡の後、覚悟を決めたようにひと息に言った。
「確かに最初は、そうだったかもしれない。そなたの上に和嬪を重ねていた。だが、いつしか中殿に惹かれていることに気づいた。今はできることなら、そなたと、許春花という一人の女と新しいこれからの人生を生きてゆきたいと思っている。これは私の正直な気持ちだ」
春花は小さく息を吸い込んだ。彼女もまた何かを言おうとして、なかなか言い出せないでいるようだ。ユンは彼女の方から話し出すのを辛抱強く待った。
もう二度と無理強いはしないと決めたのだ。永遠にも思える長い時間が流れた後、春花がそっと手を伸ばした。その動きに愕いたのか、桔梗の花に止まっていた蝶がふわりと舞い上がった。
見上げる二人の頭上高く、蝶はやがて蒼い空に吸い込まれて見えなくなる。
「私が手首を切った理由です」
「それは私がそなたに無理強いをしたから―」
言いかけたユンを春花が見つめた。こんな風に見つめ合えば、春花はいつも怯えたように眼を逸らしていた。しかし、これは初めて見る強い光を持った瞳だ。
「違うのです」
「違う、とは」
春花は一瞬眼を伏せてから、また開いた。
「殿下のせいではありません。実はあの日、女官たちが話をしているのを心ならずも聞いてしまいました。私が新しい王妃に冊立されたのは、亡くなられた和嬪さまに似ているからだと彼女たちは話していたのです」
春花はここで一旦言葉を句切った。しばらく桔梗を眺めてから、再び話し出す。
「正直申し上げて、かなりの打撃を受けました。力のある家門の娘でもなく、たいした取り柄もない私が何ゆえ中殿という地位に就くことになったのか。どうして領相大監が私を中殿とすることに熱心だったのか。実家の父は真相を知っているようでしたが、幾ら私が問うても最後まで話してはくれませんでした。お前は知らなくて良いと淋しげに笑っているばかりで。ですが、女官たちの話を聞いた時、これですべての辻褄が合ったような気もしました」
春花は薄く笑った。
作品名:身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~ 作家名:東 めぐみ