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身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~

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 何より、王が求めていたのは自分ではなく、はるか昔に亡くなったお妃さまの面影だということにはかなりの衝撃を受けた。
 何故なんだろう。私は殿下をお慕いしているわけではない。むしろ、手を縛り上げてまで無理に私の身体を開かせたあの男を恨んでいるはずなのに。泣き叫ぶ私を犯したときですら、殿下が私ではなく別の女を思い描きながら私を抱いていたのだと思うと、胸がこんなにも苦しい。
 泣くまいと思っても、泣けてくる。春花は布団から這い出ると、居間に行き文机の引き出しを開けた。小さな薄桃色の巾着(チユモニ)を取り出し、中から小さな小刀を出した。黒塗りの柄には螺鈿細工で桜花が象嵌されている。
 両班の息女は皆、物心ついたときから、常に小刀を携帯するように躾けられる。それはもし、その身を辱められるようなことがあっときは自ら生命を絶てという厳しい教えによるものである。
 もう、生きていたくない。辱めというなら、これ以上の屈辱があるだろうか。その身を汚されるよりもまだ耐え難い屈辱だ。他の女のの身代わりにされるために、手籠めにされてしまうとは。
 春花は小刀の鞘を払った。障子窓を通して差し込む夏の陽光に鋭い刃がキラリと光る。いつでも両班家の誇りを保てるように、この小刀は常に研いでいる。だから、小さくても切れ味は抜群のはず。
 彼女は眼を固く瞑り、小刀の刃を左手首に走らせた。ピュッと生暖かいものがそこら中に飛び散った。恐る恐る眼を開くと、真冬に花開く深紅の椿よりもなお色鮮やかな血が床から布団をその禍々しい色に染め上げていっている。
 血はドクドクは溢れ出ている。すべての血が身体から流れ出てしまったら、やっと私も死ねる。
 もしかしたら、私は殿下を少しずつ好きになり始めていたのかもしれない。もちろん、だからといって無理に犯されたことを許せるわけではないし、すぐに殿下を受け容れることができるとは思えないけれど。
 でも、ずっとあの方の側にいたいと、寺に入ることは諦めて、あの方の側にいても良いと考えるようになっていたのではなかったのだろうか。
 馬鹿な自分。死ぬ間際になって、そんな大切なことに気づくなんて。殿下は優しい方だから、私の気持ちを素直にお話ししたら、少しくらいは待って下さったかもしれない。そうしたら、私は、その間に殿下への気持ちをもっと大きく育てられたでしょうに。
 烈しい恋情ではなくても、穏やかな信頼と愛情で結ばれた夫婦になれていたかもしれないのにね。

 春花は歩いていた。
 ずっとずっと果てしない道をたった一人で歩いている。素足の真下には石ころだらけの道が延々と続き、その道の向こうには何も見えず、周囲もまた似たような荒れ地ばかりで、花の一本もない。
 でも、道の向こう、はるか彼方にはうす青紫の可憐な花たちが群れ咲く野原があることを知っている。そこに行けば、何かが変わる。これまでの人生を根こそぎ覆すような何かがきっと待ち受けている。
 妙な根拠のない確信を胸に、春花は懸命に歩いていく。だが、野原は全然見えず、春花は力尽きて、その場にくずおれた。
―誰か、私の手を引いて起こして。
 心で強く訴えかけたその時、唐突に眼前に花畑がひろがった。まるで舞台の背景装置が変わるように、一瞬で周囲の風景が変化(へんげ)する。
 ああ、綺麗。
 頬が濡れているせいで、春花は自分が泣いていることを知る。
 それは見たこともない美しい眺めであった。うす青紫の花が所狭しと一面に咲いている。
 春花は自分の身体が意外なほど冷え切っていることに気づいた。手も足も、身体のすべてが既に燃え盛る生命の焔が消えてしまったかのように冷たい。
 私、死ぬのかしら。
 そう考えた刹那、何故か、死にたくないと思った。
 だって、私はまだ大切なことを伝えていない。ずっと、あなたの側にいたいと、あの男に本当の気持ちを話していない。だから、今、死ぬわけにはいかない。
 これは針茉莉ね。春花は微笑み、咲き乱れる花に向かって手を伸ばした。すると、不思議なことに、誰かの大きくて温かな手のひらが春花の小さな手を握りしめてくれた。
 そのお陰で、それまで死人のように冷たかった手が俄に温もりを取り戻していく。その人は自らの生命を春花に注ぎ込むかのように、しっかりと彼女の手を握り返す。

 ふいに誰かに強く手を握り返され、春花は眼を開いた。ゆっくりと意識が覚醒してくる中で、ぼんやりとしていた視界も次第に鮮明な輪郭を結ぶようになってくる。
「―殿下」
 春花の眼に最初に映ったのは、気遣わしげな顔で自分を覗き込む王の姿であった。
「中殿、気がついたか」
 王は泣いていた。精悍な顔に今、涙が流れ落ちていくのがはっきりと見えた。
「済まない。そなたがここまで思いつめていたとは考えてもみなかった。そなたがそこまで私を厭うているとは知らなかったのだ。私が無理強いをしたことで、そなたが生命を絶つなどと、あってはならないことだ」
 許してくれと、王は殆ど聞き取れないような声で呟いた。
「私は前の王妃にも先立たれた。大切な者たちはいつも私を置き去りにして遠いところに旅立っていく。今回は私自身の不徳で、またしても大切な妻を失いかねないところであった。一体、私はどれだけ愚かな男なのか」
「ずっと付いていて下さったのですか?」
 王の普段は美麗な面が今は頬も削げ落ち、すっかりやつれ果てていた。無精髭がかなり生えているところを見ると、少なくとも数日はここにいたのではないか。
「そなたが私のせいで生死の淵をさまよっているときに、側を離れたりはできぬ」
 王は殊更恩着せがましく側にいたとは言わなかったけれど、この言葉は控えめな肯定を示すものだった。
「ずっと夢を見ていました」
「夢?」
 訝しそうな面持ちの彼に、春花は淡く微笑した。
「針茉莉の花がとても綺麗に咲いていました。私、死にたくないと思ったら、どなたかが伸ばした手を握りしめて下さって。そうしたら、ふっと凍えるように冷たかった身体が温かくなったのです。きっと殿下が私を死の淵から呼び戻して下さったのですね」
「針茉莉といえば、そなたと共に訪れた町の寺で見かけた、あの花だな」
 王は幾度も頷いた。
「中殿、いや、春花。もう二度と、このような真似はしないと約束してくれ。そなたまでを失ったら、私はもう生きてはゆけぬ」
「判りました。もう致しません」
 小さいけれど、きっぱりとした返事に王は漸く安堵したかのように笑った。

 春花が自ら左手首を掻ききったと知らされた時、ユンは信じられない想いだった。嫌われているとは知っていたが、まさか、抱いたことで自害するとまでは考えていなかった。
 大殿で執務中に報告を受けた彼は急ぎ中宮殿に駆けつけた。そこで彼を待ち受けていたのは、蒼白な顔で横たわる妻であった。
 傷は思いの外深く、出血も酷かったため、助かる見込みは五分五分だと医官から言われ、絶句した。
 その日の朝、春花の許を訪れた時、彼女は布団を被ってユンとの対面を拒んだ。ユンは去り際、わざと聞こえるように
―今宵は中殿の許で過ごす。
 と宣言したのである。