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身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~

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 手ずから簪を挿してくれた。初夜の床で王を拒み、泣いた春花の髪を宥めるように撫でてくれた優しい手の感触や、涙をぬぐってくれた指の温もりが懐かしい。
―これからはそなたの意に背くようなことはしないと約束しよう。
 真摯な声音や笑顔が浮かんでは消えていく。
 彼女は左手に填っている翡翠の指輪を眺めた。深みのある黄緑色が美しく心を癒してくれるようだ。しかし、この指輪は王が贈ってくれたもので、彼もまた同じものをしているはずだ。
「こんなもの、要らない」
 春花は指輪を引き抜くと、その場に放り投げた。刹那、また、指輪を填めてくれたときの王の整った顔がちらついてしまう。
 一体、自分が王をどう思っているのか判らない。立場的には良人と妻であるのはもちろんだ。かといって、王を良人として受け容れられるかと問われれば、やはり、否としか言えない。
 むろん、嫌いではない。しかし、彼を男として見ているかといえば、これもまた違うとしか応えられない。優しい兄に抱くような気持ちといえば、いちばん近いのかもしれない。
 その一方で、時折、烈しいまなざしでにらみ付けてきたり、昨夜のように理由もなく襲いかかってくる王は怖いし、大嫌いだ。
 でも、普段は嫌いだとも言えないのだから、やはり、好きなのだろうか。優しいときの王は異性に対するものではないけれど、多分、好きなのだろうと思う。
 それだけではいけないのだろうか。何となく?好き?で、一緒にいるだけで夫婦とはいえないのだろうか。女は妻になれば、皆、昨夜のようなことをして、辱めに耐えなければならないのか。
 王に対する春花の気持ちは自分でも掴めないほど、複雑で茫漠としたものだった。
 突如として、先刻、ここに来る前に遭遇した酔漢たちの言葉が耳奥でこだました。?蓮っ葉女、尻軽女?などと聞くに耐えないような侮蔑の言葉を荒々しく投げつけられたのだ。あんな侮辱を受けたのは生まれて初めてだ。
 身持ちの悪い娘だと言われたことは予想外の衝撃だった。
―それもこれもすべて、殿下のせいだ。
 約束を守ってくれると信じていたのに。ずっと穏やかな日々が続いてゆくと思っていたのに。もしかしたら、自分が考えていたよう?その人の側にいられるだけで幸せと思えるような?関係が築けるかもと思っていたのだが、所詮は甘い考えだったのだろう。
 結婚すれば、妻は夫と閨をともにしなければならない。良人が求めれば、いつでも身体を差し出さねばならない。ましてや春花は王妃であり、良人はこの国の王なのだ。王妃たる自分は嫁いでくる前から?跡継ぎを産む?という重責を課せられている身だ。
 それにつけても昨日の優しかった王の笑顔が思い出され、春花は涙ぐんだ。チョゴリから菫青石のノリゲを外し、ひとしきり眺めた。
 急に烈しい疲労感を憶えて、そのまま床に寝転がった。王がくれたノリゲを握りしめ、春花は眼を閉じ、深い眠りの底へと落ちていった。

 若い頃から何度となく訪れた町の隠れ家の前に佇み、ユンは深い息を吐いた。これから先、自分が春花をどうするつもりなのか自分でも判らない。判っているのはただ、自分が最早、あの少女を手放せないという一つの事実だけだ。 
 王妃失踪という前代未聞の不祥事については厳しい戒厳令が敷かれた。
―中殿さまはご不例につき、中宮殿で療養中。
 と、公に発表された。
 春花がいなくなったと露見したと同時に、ひそかに大がかりな捜索が行われた。とはいえ、隠密裡に捜索を行うため、やはり思い切った行動はできない。
 黄内官などは
―事は一刻を争います。義禁府や捕盗庁を動かしてはいかがでしょう。
 と進言してきたが、ユンは首を振った。
―私に心当たりがある。もう少し待ってくれ。
 二人が話しているところに報告が入り、夜明け前に鑑札を見せずに宮殿を出た若い女官がいたと伝えられ、ユンは確信した。
 その女官が春花に違いない。人相が判らないほど目深に外套を被っていたのも顔を見られたくないからだ。
 一日待っても春花のゆく方は杳として掴めず、彼はついに黄昏時を待って宮殿を出た。流石に今回ばかりは黄内官を伴わないわけにはゆかず、ユンは数名の選りすぐりの内官たちを連れ、町に出た。
 隠れ家まで来ると、近くの目立たない場所に内官たちはそれぞれ散らばっていった。そこから各自、それとなく護衛をするのだ。隠れ家の少し前方には黄内官自身が見張りに立った。
 そっと押すと、古めかしい扉はわずかに軋んだ音を立てて開いた。彼の予想は的中した。彼の許から逃げ出した幼い妻は疲れ果てた様子で眠っていた。固いだろうのに、剥き出しの床に胎児のように円くなって熟睡している。
 傍らに彼も填めている翡翠の指輪が転がっているのには少し怒りを憶えたけれど―、小さな手には彼が買い与えたノリゲがしっかりと握りしめられていた。白い頬は少し汚れているせいか、幾筋もの涙の跡がはっきりと見て取れる。
 少女の側には袋に入った揚げパンがあった。一つは半分ほど食べ、もう一つはまだ食べていない。町の露店で買ったのだろう。
 愚かな娘だと嗤うこともできた。宮殿にいれば、栄耀栄華は思いのままだ。この国の王妃という誰もが羨む地位に就き、しかも、政略結婚でありながら、見事に王の心を射止めたのだから。成均館の直講の娘が王妃になるなど、これから先もまずあり得ない。それなのに、王の寵愛を受けることを拒み、逃げ出した。
 しかし、春花はそんな俗世の立身にはまったく興味がない。そんな無欲なところも明姫によく似ている。
 ユンは手を伸ばし、春花の頬に触れた。涙の跡のついた頬はまだ少女らしく、ふっくらとしており、眠っているせいか余計に幼く見えた。この娘は我が子ではないが、また、亡くなった第一王女と同じ歳なのは事実だ。その生きていれば我が子と同じ歳の少女を自分は欲している。
 自分が何故、ここまで嫌われるのかユンには判らない。自分で言うのは嫌みになるだろうけれど、これでも女にモテたことはあっても、フラレたことはない。もちろん、この国の王という立場もあってのことではあるだろうが。しかし、若い頃、色町の妓楼に幾度か通った時、寄ってきた妓生たちは彼がこの国の王だとは知らなかった。
 また、明姫とも互いの身分を明かさず出逢い、恋に落ちた。明姫は彼が妓楼に上がったことがあると知ると、本気で嫉妬して怒っていた。
 何故なんだ? 明姫はあんなにも全身全霊で私を受け容れ愛してくれたのに、どうして、この娘は私をここまで頑なに拒むのだ?
 何不自由のない王妃としての生活をすべて棄て、廃妃となっても良いから、宮殿を出たいと言う。そこまでして自分を拒み通すと思えば、惚れているだけにかえって憎い。
 明姫に似ている少女に拒まれるのが余計に辛くやるせない。
 ユンはまた溜息をついた。
 まだどこかあどけない寝顔を見ていると、心は躊躇いを憶える。しかし、このままでいられないこともまた彼は十分すぎるほど理解していた。
 春花を手放せない、彼女の望みどおり、自由にしてはやれないというのなら、取るべき道は一つしかない。
 ユンは罪の意識を振り払うように首を振り、眠っている春花に近づいた。

 息が苦しい。