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身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~

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 何を言い争っているのか、その会話だけでは見当もつかなかったけれど、翌日、女中たちが物陰でひそひそと囁き交わしているのを聞いてしまったのである。
―奥さま(マーニム)はまた昨夜も旦那さまの寝所から追い出されてしまったようよ。
―お気の毒ね。寝化粧までして旦那さまの気を引こうと躍起になっているのに、肝心の旦那さまは奥さまの肌を撫でるよりも、書物の手触りを確かめている方が良いと思われるような方なのだもの。
 お気の毒と言いながら、その声音には明らかに侮蔑と嘲笑が混じっているのが子どもの春花にも判った。
 女中たちのやりとりも内容は漠として春花には今一つつかみ取れなかったが、母が父の関心を引こうと空しい努力を続けているらしい―という程度のことは理解できた。更に、母が父に対して望むものが何なのか、それ以上、知ろうとして深入りしてはいけないと子ども特有の鋭い勘で知っていた。
 その頃から、春花は女は何故、男の気を惹くために、無駄な努力をしなくてはいけないのか判らなかった。男に縋らなくとも、女だって一人で生きていける。その気持ちが余計に長じた後は誰にも嫁がず寺に入りたいという想いを助長させたのだともいえる。
 宮殿を出たのは夜明けにはまだ少し間がある時間だった。子どもの頃から母に見つからないようにこっそりと屋敷を抜け出すことには慣れている。春花は脱出用にと用意していた女官のお仕着せに着替えた。宮殿を出入りするには鑑札(身分を証明するもの)が必要だが、これは門番に幾ばくかの金を握らせることで何とかできた。
 女官の制服を着て、頭からすっぽりと外套を被ってしまえば、誰も中殿だとは見抜けない。第一、王妃が明け方に人知れず宮殿を出ていくなどと誰が考えるだろう。
 とにかく、そうやって彼女は堂々と正門から宮殿を抜け出すことに成功した。いつもお忍びで町に出るときは塀を乗り越えているのだ。国王の住まいである宮殿が広いのは当然だが、春花はあちこちをひそかに探索した結果、王城を取り囲む塀にも愕くほど低い場所、警備の兵どころか、見回りすらろくに来ない場所があることを知った。
 以前に抜け出したときは、そのルートを使ったのである。今回、堂々と正門から出たのたは、せめてもの王への意趣返しのつもりであった。自分だって、その気になれば拘束されずに堂々と正門から出て行けるのだと暗黙に突きつけてやったのだ。
 もう二度と戻るつもりはなかった。あんな怖い男の許に戻るなんて、考えただけでも総毛立つようだ。領議政の顔に泥を塗ったって、気にしない。元々、春花と父を脅迫して無理に入内させたような卑劣漢に遠慮なんてしない。実家の父に対してだけは申し訳なく思ったけれど、あのまま後宮にいるのだけはご免だった。
 だが、いざ宮殿を出たのは良いが、行く当てがまったくないことに気づいた。実家に帰っても、意味はない。春花がいなくなったことを知れば、国王は烈火のごとく怒るだろう。最も先に捜索の手が伸びるのは実家であることくらい察しはついた。それに、実家に戻れば、父にも迷惑がかかってしまう。これ以上の親不孝はできない。
 実家以外に思いつく場所はなかった。春花は自分の浅はかさと情けなさに打ちひしがれ、とぼとぼと力ない足取りでゆく当てもなく歩き回るしかなかった。
 そうして、当てもなく歩き続けている中に頭に浮かんだのが例の隠れ家であった。情けなくも、あそこしか身を落ち着ける場所がないのだ。だが、流石の王もまさか宮殿を飛び出した春花が自分の隠れ家に潜んでいるとは思わないだろう。そんな目算ももちろんあった。
 隠れ家に行くには色町を抜けなければならない。以前は昼間で人通りは殆どなかったし、何より王と一緒だった。だが、今日はたった一人、しかもまだ堅気の人間なら眠っている時間帯である。華やかな灯りを点している妓楼が軒を連ねている色町の通りを、こうして歩いているというわけだった。
 やっと色町を抜け出ようとしたその時、小さな見世から二人連れが出てきた。酔漢らしく、二人ともに紅い顔をしている。両班の若さまらしいのは絹製の仕立ての良いパジチョゴリを見れば一目瞭然であった。春花と歳はさほど違わず、二十歳前後の若さだろう。
 放蕩息子らしく、二人ともに荒んだ退廃的な雰囲気がする若者たちだ。いやな連中と遭遇したと思いながら、彼女は外套をいっそう目深に被り直し、足早に彼らと行き過ぎようとした。
 が、突如として眼前に立ち塞がられ、弾かれたように顔を上げる。
「ねえ、こんな時間に君みたいなお嬢さんが何でこんなところにいるの?」
「いけない娘だねえ。どうせ、親に黙って内緒で屋敷を抜け出して遊んでるんだろ」
 二人が口々に好きなことを言っている。
 春花は取り合わず、無視して進もうとした。と、ふいに力任せに外套を引っ張られる。弾みで被っていた外套がはらとり宙に舞った。
 まだ菫色の空に浮かんでいる月がはっきりと春花の顔を照らし出した。
 二人が顔を見合わせ、ヒューと下品に口笛を鳴らす。
「何て美人だ。都ひろしといえども、こんな良い女は見たことがない」
「でも、君、そのなりは宮殿の女官だろ。女官が夜中に勝手に色町をほっつき歩いていて良いのかい?」
「―」
 春花は慌てて顔を伏せた。
「そこを通して下さい」
「ねえ、俺たちと一緒に遊ぼうよ?」
「良いところに連れてってやるからさ」
 二人が口々に言うのに、春花は初めて顔を上げて真正面から二人を見た。
「そこをどいて、私を通して」
 一人が笑った。
「気の強い娘だな。だが、俺は気の強い女も嫌いじゃない。なっ、これから俺たちと楽しいことをしよう」
「俺たち二人で君をうんと気持ちよくさせてやるからさ」
 にやけた顔の二人だが、眼だけは異様にギラギラとして怖いようだ。その目つきは昨夜、春花に襲いかかった王のものと似ていた。
―怖いっ。
 春花はまた身体が震え出すのが判った。
「あれ、震えてる? 可愛いね。もしかして、男は初めてとか」
「心配しなくて良いよ。俺たちがうんと優しくしてあげる」
 じりじりと間合いを詰めてくる男たちには怖いくらいの迫力がある。背の低いニキビ面の男にいきなり腕を掴まれ、春花は悲鳴を上げた。更に後ろから長身の男に羽交い締めにされ、抱き上げられた。
「何をするの! 止めなさい」
 毅然として言ったが、二人の男はゲラゲラと笑うだけだ。
「止めなさいときたか。たかだか女官の癖に、気位だけは中殿さまのように高いな」
 まさか自分たちが襲おうとしているのがその中殿さまだとは思いもしない馬鹿息子たちである。
「お高く止まった女もたまには悪くないぞ。見ろよ、結構良い身体してるぞ。肌も吸いつくようだし、抱き心地も最高だろうよ」
「見ろよ、こいつ、震えてやがる。女官なら、生娘の可能性が高いな。素人の生娘で、しかも宮廷女官を好きに出来る機会なんて滅多にない。どこかに連れ込んで今日は一日中、やりまくろうぜ」
 意味は判らないなりに、またしても自分の身が危険にさらされていることが判った。しかも王はまだしも良人だが、この男たちはゆきずりの名前すら知らない男たちである。
 突然、チョゴリの上から胸をなで回され、春花は悲鳴を上げた。