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身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~

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 流石に幼い末娘が急に具合悪しくなったと聞いて、春花を押し倒すどころではなく、王はすぐに仁嬪の殿舎に向かった。
「金尚宮、ありがとう」
 春花は金尚宮に心から礼を言った。このベテランの尚宮は春花が婚礼以前に参内したときから優しく接してくれる。
「今宵はもう何もお考えにならず、ゆっくりとお寝み下さいませ。これからのことは明日、お考えになればよろしいかと存じます」
「そうね」
 春花は頷き、室内に戻った。寝所に入ると、寝乱れた褥がいやでも眼に入る。ここで自分は王に犯された。もし逃げ出していなければ、あの後、どうなったか。考えたくもなかった。
 怖くて、恥ずかしくて、死にたいとすら思った。金尚宮がやって来て、清潔な新しい夜着を着せつけてくれる。
 春花の身体がまだ震えているのを見、金尚宮は嘆息した。
「お可哀想に、よほど怖くていらっしゃったのですね」
 金尚宮は乱れた褥を見ても、何も言わなかった。ただ褥をきちんと敷き直し、整えた後、蜂蜜湯を持ってきてくれた。
「これを呑んで、朝までぐっすりとお眠り下さいませね」
 温かな蜂蜜湯が咽をすべり落ちてゆくと、身体中がんわりと温かくなってくる。身体の震えはこのときになって、やっと止まっていた。
「それでは、お休みなさいませ」
 金尚宮が燭台の灯りを消して出ていった後も、春花は眠れず天井を見つめていた。
 身体は泥のように疲れているのに、意識の芯だけは冷めている。そんな感じだ。神経が異常に高ぶっているともいえるかもしれない。
 今夜は和寿翁主の急病のせいで、事なきを得た。でも、明日以降はどうなる? たとえ形ばかりとはいえ、自分は中殿なのだ。王とは世にも許された正式な夫婦でもある。しかもこの国の最高権力者である王に望まれれば、拒否することは許されない。
 でも、私はいや。あんな怖い男に好きなようにされるのも触れられるのもいや。
 それに、こんなところには、もう片時たりともいたくない。ここにいれば、またあの怖ろしい男がやってきて、春花の身体に手を伸ばそうとするかもしれない。今夜のことで愛想を尽かしてくれれば良いけれど、そんなにうまく事が運ぶだろうか。
 幼い王女が病気になったことを歓ぶつもりはない。それでも、危機一髪というところで、王女の急変の報がもたらされたお陰で自分は九死に一生を得たのだから、人の世は悲喜こもごもというのは本当なのかもしれない。
 春花は天井をじいっと見据えたまま、考えに耽った。
 
 その夜、中宮殿から王妃の姿がかき消すよえに見えなくなった。翌朝、金尚宮はいつもより少し遅めの時間に王妃に声をかけた。前夜の出来事があるだけに、王妃の心身の負担を考えてのことだったが、逆にそれが裏目に出た。
 金尚宮が何度呼んでも返事はなく、ついに無礼を承知で寝所に踏み込んだ時、室内はもぬけの殻で、絹の褥はしんと冷たく人の温もりはなかった。
 うだるような夏の一日が始まろうとする朝、一ヶ月前に輿入れしたばかりの十七歳の王妃が失踪という不祥事が起きた。中宮殿は上から下への大騒動となり、深い憂愁に閉ざされた。
 一方、真夜中に引きつけの発作を起こした和寿翁主は医官たちの懸命の治療が功を奏し、容態は持ち直した。ただし、この二年後、五歳の翁主はやはり引きつけの発作を起こし、亡くなっている。
 
 往来の両側には煌々と灯を点した提灯が並んでいる。眼にも鮮やかな緋色の布張りのそれが軒下にずらりと掛かっている光景は何とも艶めかしい。いかにも色町らしい淫猥さと艶っぽさが町全体に漂っているようで、春花は居たたまれない想いで道を歩いていた。
 道の向こうから男女の二人連れが歩いてくる。男は三十代半ばほどで、いかにも富裕な商人といった体だ。その男にしなだれかかっているのは妓生だろう、高々と結い上げられた複雑な髪型や派手すぎる衣装からもひとめで知れる。妓生といっても、もう二十歳は過ぎているのかもしれない。厚化粧でごまかそうとしても、年齢が今一つごまかせていない。
 二人ともにかなり酔いが回っている様子で、女が男の耳許で何か囁くと、何がおかしいのか、男はゲラゲラと下品な笑い声を上げている。
 二人と丁度すれ違いざま、妓生が春花を一瞥し、意味ありげな笑みを浮かべた。けして感じの良いものではなく、むしろ世間知らずの乳臭い小娘が何でこんな場違いな場所にいるのかと嘲笑するような笑いだ。
 春花は妓生の敵意に満ちた視線に慌てて顔を伏せ、足早に行き過ぎようとした。刹那、男と妓生が春花を指さし、何か言い合いながら癇に障る笑い声を上げた。
 何か自分のことを話しているのであろうと察しはついたけれど、詮索するゆとりもなく、彼女は唇を噛みしめて歩き去るしかなかった。
「いやだぁ、旦那さまったら」
 妓生のわざとらしい甘えた声が背後から聞こえてきて、春花は堪りかねて走り出した。
 女が男に媚びを売り、しなだれかかる様やわざと甘えた声を上げるのを見るのは耐えられなかった。そもそも春花は男という人種があまり好きではない。そういう言い方は語弊があるかもしれないが、要するに男性に触れられるという行為そのものに抵抗があるのだ。
 まだ未通の若い娘特有の潔癖さとは違う、生まれながらの男嫌いとでもいうのか。それに、何故、女がわざと男に流し目を送ったり、気を惹くために美しく装ったり化粧したりするのかも理解できなかった。
 自分は自分。心から好きな相手が現れればまた話は別だが、好きでもない男のために装い媚を含んだまなざしをわざとらしく送るのなんて、それこそ妓生のすることではないか。
 人は皆、等しく平等であるべき(成均館は国内最高の儒学の教育機関である。その教師である父は表向きは身分制度を信奉しているが、実は個人的には身分制度に疑問を抱いていた)という父の教えを受けて育った春花は特に職業で人を差別するつもりはない。
 けれど、職業の貴賎とは別次元のところで、男の歓心を買うために女が媚態を作り、ましてや金で大勢の男に自分の身体を切り売りするということも信じられない。
 それは何も妓生だけではない。ごく一般の―春花の母だって、良人相手に同じようなことをしている。幼い頃から、春花はそんな母を見るのが嫌いだった。父は特に女好きではなく―むしろ、その逆である。女や色事にはとんと関心がなく、一日中、山のような書物に埋もれていれば幸せというような根っからの堅物だ。
 もしかしたら、春花もそんな父の血を受け継いでしまったのかもしれない。無骨な父は母が幾ら流行の服を着ようと新しい髪飾りを身につけようと、とんと気づかない。母は躍起になって父の気を何とか向けようとするのだが、いつも空しい努力に終わった。
 春花が子どもの頃、こんなことがあった。夜半、両親の寝室の方が騒がしいので、何事かと起き出して、こっそりと様子を見にいった。寝室からは灯りが洩れ、母の派手な泣き声が聞こえていた。
―旦那さま(ヨンガン)はどうして私をいつも邪険に突き放すのですか?
―ホホウ、夫人(プーイン)。急にそなたは何を言い出すのだ、まったく、こんな真夜中に騒がしい。儂は朝がまた早いのだ。繰り言はたいがいにして良い加減に寝かせてくれ。