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身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~

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「その方とご一緒に揚げパンを食べたことは、旦那さまにとっては本当に大切な想い出なのですね」
「その者が亡くなって、もう随分と年月が経った。私は、いまだに女々しく想い出ばかりに浸って生きている。情けないことだ」
 ユンが半ば自棄気味に言うと、春花は微笑んだ。
「きっと、その方も歓ばれていると思います」
「歓んでいる?」
「はい。亡くなった人を憶えているのも忘れるのも、生きている者にはどちらも辛いことです。ただ、憶えているということは、今もその人を大切に―その人と一緒に過ごした時間を尊いものだと思っている証です。きっと亡くなられたその方も旦那さまがいまだにその方との想い出を懐かしく思い起こされていると知れば、歓ばれるでしょう」
 到底、わずか十七年しか生きていない少女の言葉とは思えないものだった。流石に成均館の教師を父に持ち、自身も寺に入って学問をしたいと望むだけはある娘だ。
 ユンは眩しげに眼を細めて春花を見た。明姫が生き返って戻ってきたかのような春花の言葉は、まさに、あの世の明姫からの彼への伝言だった。明姫が今、春花の口を借りてユンに想いを伝えているのかもしれなかった。
 だが、不思議と今、彼は眼前の明姫に生き写しの少女の中にかつての想い人の面影を見ることはなかった。
 明姫、許してくれ。もしかしたら、私はそなたの面影を追っているだけではなく、この娘を本気で愛し始めているのかもしれない。いや、きっと明姫ではなく、許春花という一人の少女を求めているのだ。
 きっかけは確かに明姫に生き写しの外見だったと否定はできない。しかし、春花と一緒に多くの時間を過ごし、彼女の人柄を知るに浸け、ユンはこの少女に惹かれ、愛しいと思うようになっていた。
 ユンはもう、自分の心を認めないわけにはいかなかった。何より、彼が春花のために小間物屋で買い求めたノリゲや簪がその気持ちを表していた。
 小間物屋にはかつて十七年前、彼が明姫に贈った灰廉石(タンザナイト)のノリゲや簪もあった。でも、彼が春花に贈ったのは菫青石(アイオライト)だった。
 彼は無意識の中に考えて別の石を選んでいたのだ。もし彼が春花を本当に明姫の身代わりとしてしか見ていないのなら、明姫に贈ったのと同じ石を選んだはずである。同じ灰廉石を贈り、明姫にそっくりな春花に身につけさせて、明姫をこの手に取り戻したと悦に入って眺めていただろう。
 だが、彼は敢えて同じ物は選ばなかった。その理由は、同じ石を贈れば、いかにも春花を明姫の身代わりと見なしているようだから。それゆえ、春花は春花だと一人の女性として彼女のために新たな石を選び贈った。
 それが、ユンの何よりの正直な春花への想いだった。
 だが、春花は彼を求めてはいない。明姫はユンの想いに応えてくれたけれど、この少女は彼から離れて、寺に入りたいと望んでいる。どう見ても、現状は絶望的だ。改めて気づいた己れの恋心はかえって彼の気持ちを落胆させただけだった。

 想いのゆくえ

 夜になった。ユンはその夜、なかなか寝付けなかった。蒸し暑いせいもあったかもしれない。八月に入ったばかりの真夜中は、床に身を横たえていても、じっとりと嫌な汗が浮いてきて不愉快極まりない。
 大殿の寝所で寝んでいたのだが、ついに寝苦しさと暑さに耐えきれず、寝床から出た。そのまま寝所から出ると、廊下で待機していた若い内官がすっと近寄ってきた。
「殿下、何かご用でも?」
「いや、あまりに寝苦しいものだから、眠れなくて、つい出てきてしまった。少し外で夜風に当たってくるとしよう」
「でしたら、私めがお伴致します」
 黄内官がよく躾けているらしく、若い内官は律儀に言う。
「いや、ほんの近くまでゆえ、伴するには及ばぬ。そなたも勤め、ご苦労だな」
「はっ」
 寝ずの番の労をねぎらうと、内官は恐縮して頭を下げる。二十歳過ぎの内官は、かつて自分が明姫と出逢った頃と同じ年齢だ。こんな何気ないことでさえ、明姫と結びつけてしまう自分の女々しさにまたも自己嫌悪に陥りそうになる。
―きっと亡くなられたその方も旦那さまがいまだにその方との想い出を懐かしく思い起こされていると知れば、歓ばれるでしょう。
 ふと昼間の春花の言葉を思い出し、ユンは淡く微笑した。
 私が思い出すことで、明姫が歓んでいるのなら、それも満更悪いことではないかもしれないな。自然にそう思えてくるから、不思議である。
 その中に、ふと考えた。
―中殿はどうしているのだろう。
 思い出すと、無性に顔を見たくて堪らなくなった。が、こんな時間に中宮殿を訪ねるわけにはいかない。いや、世の常の夫婦関係であれば、訪ねたとて何の不思議もないのだが、春花とは例の約束もある。
 まったく自分はつくづく女運がないらしい。前妻とも夫婦として十八年も連れ添いながら、実質的な夫婦であったのは、ほんの数年間のことだった。しかも、月に何度かいう、極めて淡い交わりにすぎなかった。
 やっと意に適った女を迎えられたと思いきや、その女には初夜からいきなり拒まれてしまった。しかも、二度目の妻は廃妃にされても良いから、宮殿から出して欲しいと訴えている。
 春花の許に行けないのなら、側室の誰かの許に行こうかと思ったけれど、そんな気にもなれない。眼の前に欲しい女がいるのに、どうして、他の女の許に行かなければならないのだろう。
 十八年前に迎えた側室賢嬪、温嬪の二人とはもう関係は絶えて久しい。新たに迎え入れた三人の側室たちの中で最も安らげるのは仁嬪だ。実家はさほど高い家門ではないが、それでも、前の中殿の喪が明けると同時に禁婚令を出し、側室として公に選ばれて後宮入りした妃たちの一人である。
 かつて明姫に抱いていたような烈しい恋情はないけれど、側室たちの中では最もユンが気に入っている妃であった。それを物語るかのように、仁嬪(インビン)は三人の王女を立て続けに出産している。
 後の二人はそれぞれ第三王女の生母である沈貴人(シムキイン)と残念ながら御子を授からなかった安昭儀(アンソイ)だ。この二人も性格は至って穏やかであり、一緒にいて気分を害するようなことはない。三人ともに王の寵愛をめぐって妍を競うようなタイプでないのは幸いだった。
 そのせいで、側室が五人いる後宮ではあるが、表立った波風が立った試しはない。最古参の賢嬪は入内したときから権高で嫉妬深く彼を辟易させたが、国王からの夜のお召しもまったく途絶えて十数年、流石に諦めの境地に達したのか、今は牙を抜かれた猪のように大人しくしている。
 やはり、仁嬪の許に行こうかとユンは小さく息を吐き、そちらの殿舎に脚を向けた。その刹那、得も言われぬ調べが風に乗って流れてきた。
「これは伽耶琴(カヤグム)だな」
 一人ごとめいて言い、しばらくその場に佇んで耳を傾けていた。哀切でいながら、どこか艶っぽく、たとえようのない音色に強く惹かれた。
 一体、誰がこの夜更けに弾いているのか。ユンは興味を憶えて、音色の響いてくる方に歩き出した。