小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~

INDEX|20ページ/35ページ|

次のページ前のページ
 

 店主が選んだのはそれぞれ群青色と牡丹色の靴であった。いずれも花の刺繍が入った絹製である。
「春花はどちらが気に入った?」
 問われ、春花は首を傾げた。
「どちらも素敵ですね」
 と、ユンは頷いた。
「それでは、店主。両方を貰おう」
 その言葉に、春花の方が慌てた。
「旦那さま、なりません」
「しかし、そなたは両方が良いのだろう?」
 事もなげに言うユンに、春花は真顔で首を振る。
「もう今日は十分、買って頂きました。これ以上は結構です」
 それから店主には聞こえないように、早口で囁く。
「その日その日を過ごすのに精一杯の民がいるというのに、無意味な贅沢はできません」
「―」
 ユンはひと言もない。中殿としては、まさに模範的な態度であり、現実として嫁いできたばかりの若い王妃に国王としての心得を説かれたような気がして、気恥ずかしい。
 確かに、市を行き交う人々は皆、服装も粗末だし、ゆとりのある生活を送っているようには見えない。表情こそ生き生きとしているものの、春花の指摘するように、暮らしそのものは一日を過ごすのがやっとという有様の者が多いのである。
 だが、店主の男があからさまに落胆した様子なのを見て、春花は小さな吐息をついた。
「それでは、蒼色の靴の方を」
「よし、では、そちらにしよう」
 鶴の一声で、蒼色の靴に決まった。春花の希望で買ったばかりの靴を履いていくことになった。箱に今まで履いていた靴を入れて貰った。
「うん、その靴もなかなか似合う」
 ユンがまた満足げな面持ちで呟いている側で、若い店主が言った。
「奥方さまの今日のご衣装に誂えたようにぴったりですよ。まるで天女さまが舞い降りたようで、私も商売柄、たくさんのご婦人方を見ておりますが、近頃、都で売れっ子の妓生傾城香月でも、これほどの色香溢れる美人じゃないですぜ、旦那」
 満更お世辞ではないらしく、店主は春花に見惚れたように、とろんとした眼で見つめている。
「無礼者っ。妻と比べるのに妓生を引き合いに出すとは」
「い、いや、済みません。奥方さまがあまりにお美しいもので、つい口が滑っちまいました。奥方さま、またよろしかったら、当店をご利用下さいまし。旦那さまがお忙しければ、お一人でも覗いて下さい」
「ありがとう。この靴、履き心地がとても良いわ。また、寄らせて貰いますね」
 春花が笑顔で応えているのも面白くない。
「行くぞ」
 ユンは憮然として春花の華奢な手首を掴んだ。
「まったく、あの靴屋はけしからん。それに、油断ならぬヤツだ。ああいう手合いは女には手が早いゆえ、そなたも気を付けるのだぞ。それに、そなたもそなただ。商売人の口が上手いのは商法だ。多少うまいことを言われてたからといって、あのように媚を売ってはならない」
「私、媚なんて売ってません」
 春花が口を尖らせるのを見て、ユンは笑った。
「確かに今のは私が言い過ぎた。若くて美人の妻を持つと、良人は気が休まる暇がないな。だが、今度から、もう一人で町に出てはいけない。もし町に出たくなったら、必ず私に言うと約束しなさい。一人で町を出歩いているのを見つけたら、後宮に閉じ込めて一歩も外に出さないからな」
 しかし、春花は小さいけれど、はっきりとした声音で言った。
「それはお約束できかねます」
 予想外の返答に、ユンは眼を剥いた。
「私の言うことがきけぬというのか?」
「私は私であって、殿下の所有物ではありません。私は自分の行きたいときに行きたいところに参ります」
「別に私はそなたを拘束しようというわけではない。ただ、一人で町を出歩いていて、危険な目に遭ってはいけないと心配しているだけだ。それが理解できないのか?」
 この少女が明姫と違うのは、こういうところだと漸く判った。明姫は何事も彼の言うことには従順に従ったが、春花は控えめだが、何でも言いたいことをはきはきと口にするようだ。
 今頃は都でも女たちが強くなったとしきりに言われている。いつまでも男の後に付き従う女よりも、春花のように自分の考えをしっかりと持ち、自分の脚で思うように歩いていくのが当世流なのだと巷ではしきりにもてはやされている。
 ユンは特に女に対して従順さを求めているわけではなかった。春花のように自分というものをしっかりと持っている女も悪くはないと思う。しかし、良人の命に素直に従えないというのもまた考えものではある。
 が、春花も許修得の娘だけあり、愚かではない。ユンの思惑を正しく理解したのか、しばらくして小さく頷いた。
「判りました。今度からは町に出かけたくなったら、殿下にご相談します」
「判ってくれたのなら、何よりだ」
 これ以上、気まずくはなりたくないので、その話はそれでおしまいになった。また、ユン自身も春花に一人で外出してはならないと厳しく言い渡した裏には、妻が他の男に眼を付けられたり誘惑されたりしてはならないという―ひそかな警戒心と嫉妬心もあることを認めないわけにはいかない。
 話を早々に切り上げたのは、男としては、少し情けないことだと思ったせいもあった。
 そこで、彼はやっと思い出した。
「折角の揚げパンが冷めてしまった」
 彼は後生大切に抱えていた紙袋から揚げパンを一つ取り出した。
「そなたもどうだ?」
「頂きます」
 春花は素直に受け取り、ひと口囓った。
「美味しい」
 満面の笑顔は十七歳らしい無邪気さが溢れている。その笑顔につられるように、ユンもまた揚げパンを取り出して囓った。
「宮殿では、こんなことは絶対にできないからな。たまには、こういうのも良いだろう?」
「はい」
 春花は美味しそうに揚げパンを食べている。若いだけあって、見ている方が気持ちよくなるくらいの食べっぷりだ。
 ふいにユンは奇妙な浮遊感に囚われた。
―ユン、美味しいわ。
 かつて隠れ家で明姫と一緒に揚げパンを食べたことがあった。もう、十八年も前のことだ。
―ユン、私、揚げパンが大好きなの。
―そなたは見かけによらず、食欲旺盛なのだな。
 他愛ないやりとりが楽しくて、このまま何時間でも明姫と一緒にいたいと思った。
 ユンは首を振った。いけない。また、過去に引きずられそうになっている。春花といると、自分の側にいるのが明姫なのか、まったく別の女なのか判らなくなってしまう。
 明姫と過ごしたあの輝かしい時間は実は終わってなどいなくて、ずっと続いて今に至っているのではないかと馬鹿げた夢想をしてしまう。
「旦那さま、ご気分でも悪いのですか?」
 春花が不安げに見つめていることに気づき、ユンは無理に笑顔を作った。
「いや、少し考え事をしていた」
「考え事?」
「というより、思い出していたんだ」
 ユンは手にした揚げパンをまたひと口囓った。何故か、涙が込み上げてきた。相変わらず自分は女々しい男だと思った。
「昔、もう大昔になるが、この揚げパンを共に食べた者がいた。今のように、並んで一緒に揚げパンを食べた。その者は揚げパンが大好物で、見ている私が呆れるくらい美味しそうに食べていたよ。丁度、今のそなたのように」
 幾ら何でも春花の前で泣くのだけは避けたい。ユンは涙を眼裏で乾かした。何か感じるものがあったのか、春花はしばらく後、こんなことを言った。