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身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~

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「これは―針茉莉(はつまつり)だわ」
 あまり感情を露わにしない春花には珍しく歓声を上げて、花に近寄っていく。その姿は屈託なく、歳相応の若い娘らしい。
 春花は熱心に花に見入っている。垂れ下がった枝先に小さなうす青紫の小花がたくさんついている愛らしい花だ。
「この花はうちの庭にもあります」
 ユンに話しかけているのか、可愛らしい声で嬉しげに言っている。
 春花が振り向いた。その面にユンはまさしく想い人の面影を見た。彼がかつて片時も離さないほど寵愛し、亡くなってからは恋い焦がれて忘れられない永遠の恋人がそこにいる。
 どこかから声が聞こえた。
―ユン、愛しているわ。
 ユンの眼に熱いものが滲んだ。
―明姫。やっと、やっと帰ってきてくれたのか。そなたのいないこの年月は私にとって、あまりに長すぎた。
 ユンは熱に浮かされたように春花に近づいた。
「殿下?」
 彼の様子がおかしいのか、春花が怪訝な面持ちで見上げている。
「―明姫」
 ユンは春花を引き寄せ、抱きしめた。
「殿下」
 狼狽える声には取り合わず、激情のままに唇を塞いだ。
「チョ―」
 春花は小さな手でユンの胸板を押し返そうとするが、抵抗はあっさりと抑えこまれる。
「苦し―」
 あまりにも長く唇を塞がれ、春花がわずかに唇を開いた。その隙にユンの舌が入り込み、逃げ惑う彼女の舌を絡め取り、乱暴に吸い上げる。荒々しい口づけはいつまでも続いた。
 一旦離れたかと思えば、すぐにまた荒々しく塞がれる。
「いや!」
 春花が渾身の力を出したため、今度はユンも勢いで彼女を離さざるを得なかった。
「酷い」
 春花は涙に潤んだ眼でユンを見つめた。
「中殿」
 一時の激情と情熱から漸く醒めたユンは茫然として春花を見る。
「中殿、私は」
 言いかけたユンを後に、春花は身を翻した。
「中殿!」
 泣きながら走り去った少女を彼は茫然と見送った。
 春花がいなくなった後も、ユンはいつまでもその場に立ち尽くしていた。何ということをしたのか。いずれ自由の身にしてやると約束しておきながら、自分のしていることは春花を欲望に任せて欲しいままにしようとするばかりだ。
 だが、時ここに至り、彼も認めないわけにはいかない。自分は自分が考えている以上に、あの若い妻に心奪われている。
 とはいえ、先刻、強い衝動に煽られて春花に口づけてしまったのは、やはり彼女の上に明姫の面影を見たからだ。針茉莉を見て歓声を上げていた彼女はあまりにも愛らしく、しかも、振り向いた一瞬の表情は十八年前の明姫との出逢いをまさに再現するようであった。
 では、やはり、自分はあの娘を明姫の身代わりとして見ているだけなのか? 許春花という一人の少女として求めているのではないと?
 巡る想いに出口はなかった。彼は大きな息を吐き出し、疲れ切った表情で歩き始めた。

 十日余りが過ぎた。七月も下旬となり、朝からねっとりとした大気が肌に纏いつくようで、じっとしていても不快な汗が滲んでくる。止むことのない蝉の声がなお暑さを助長しているような真夏の昼下がりだった。
 だが、国王の日々の暮らしは変わらない。毎朝、執務室には山のような上奏文が届けられてくる。それらは地方からのものだったり、朝廷の重臣からだったりする。それらに逐一、眼を通し、それぞれに対して適切な処置を取る。
 その日もユンはまだ半ば近く残っている書状を読みながら、溜息をついた。
「畏れながら、殿下。お疲れなのではございませんか? 少しご休憩されてはいかがでしょう」
 傍らに控えていた黄内官が遠慮がちに声をかける。
「そろそろ私も歳かな。若い頃のように、あまり無理がきかなくなった」
 ユンはこめかみに鈍い痛みを憶え、苦笑混じりに言った。
「ただ今、お茶でもお持ち致しましょうか」
「いや、今はまだ良い。もう少し片付けてからにしよう」
 ユンが言ったその時、扉の向こうから若い内官の声が聞こえてきた。
「殿下、中宮殿の女官が参っております」
「中宮殿の女官が? 何事だ」
 ユンは黄内官と顔を見合わせた。
 ユンの意を察した黄内官はすぐに外に出ていった。ほどなく戻ってきて、ユンに小声で告げる。
「中殿さまにお仕えする金尚宮からの遣いだとかで、女官が参っているようです」
「一体、何があったのだ」
 あまり良い予感がしないまま問うと、はっきりと物を言う男にしては珍しく言葉を濁す。
「はっきりと申せ」
「大妃さまより呼び出しが来て、中殿さまが大妃殿に向かわれたとの由ですが、どうも大妃さまのお怒りが深いようで」
 つまり、春花が大妃に叱責を受けているということだろう。
 ユンは眉を顰めた。
「何故、母上さまが中殿をお叱りになるのだ」
「それは―私にも判りかねますが」
 黄内官の表情からすれば、満更思い当たらないでもないらしいが、その立場では口にしにくいことらしい。
 ―と、ユンはハッとした。春花が大妃の怒りを買う理由など、決まっている。
「大妃殿に行く」
 短く告げ、ユンはまだ山積している書状には眼もくれず立ち上がった。
 だが、事はそうすんなりとは進まなかった。急な国王のおなりと聞き、飛び出してきた尚宮は?ただ今、大妃さまは取り込み中?と繰り返した。
「構わぬ」
 彼は狼狽える尚宮を無視して、単身、大妃の居室へと乗り込んだ。その扉の前に立った時、室内から烈しい声が飛んできた。
「王妃付きの尚宮からその話を聞いたときは、我が耳を疑ったぞ。そなたは自分が何ゆえ、王妃となったか判っておるのであろうな? そなたの務めは一も二もなく殿下の寵を賜り、この国の世継ぎを産むことなのだ。それをあろうことか、殿下の御意を拒むとは何事か!」
 怒りのあまり、大妃の声は震えていた。これはまずい。このまま放っておいたら、ヒステリーはますます手が付けられなくなってくる。
 王妃付きの金尚宮はもう五十近い大ベテランで、後宮仕えも長い。主人となった若い王妃に忠誠を尽くす人物ではあるが、流石に大妃に直々呼び出され詰問されたとすれば、事の真相を話さなければならなかったに違いない。
 つまり、新婚まもない国王夫妻がいまだに褥を共にしておらず、王妃は清らかな処女(おとめ)だということだ。
 ユンは扉の前に立つ女官に目顔で頷いた。心得た女官二人がさっと両脇から扉を開く。
「母上、良い加減になさいませ」
 可哀想に、春花は上座の大妃の前に引き立てられるようにして座り、うつむいている。か細いその後ろ姿を見て、ユンは腹立たしさを隠せない。
 新しい嫁が来れば、早速、嫁いびりが始まったようである。
 ユンは頭を抱えたくなる。しかも、春花は大妃も気に入って迎えた嫁ではなかったのか。春に王妃となるべき娘と初対面の儀に臨んだ時、あれほど機嫌良く春花を迎えた母の態度とはまったく違っている。
 大妃を刺激するのはまずいとは頭で判っていても、つい頭に血が上って言葉を選んではいられない。
「夫婦の間のことは我ら二人で話して決めます。ゆえに、部外者の母上には要らぬ口出しはご遠慮頂きたい」
「なっ、何ですと、主上(チユサン)!」
 案の定、大妃の顔は赤を通り越して蒼くなっている。