身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~
それにしても、と、彼は熱心に祈りを捧げる妻を複雑な想いで見つめた。先刻、許修得と別れ際に春花が放ったひと言がやはり、彼の心を打ちのめしていた。
やはり、春花は実家に戻して―いや、彼女の望みどおり寺に入れるようにしてやるのが最善の道なのだろうか。そのためには、やはり、彼女の提案したように、数年は待たなければならない。幾ら彼女の望みとはいえ、娶ったばかりの王妃を何の理由もなく廃妃とするわけにはいかない。
何年か経過して、子が出来ないという理由をつけて廃妃とし、後宮から出すというのが考えられる最も穏当な方法といえた。しかし、彼の前妻も含めて、かつて子のできなかった王妃などごまんといる。子ができないという理由だけで、領議政が廃妃することを容易に納得するとは思えず、ユンは事態のややこしさに溜息が出そうだ。
春花は四半刻は祈り続けていた。漸く気が済んだのか、祈り終えたときには、彼女の顔色は幾ばくかは良くなっていた。許氏の屋敷を出た直後は今にも倒れそうだと心配したくらい血の気がなかったのだ。
「私の我が儘におつきあい下さり、ありがとうございます」
春花は小さな声で礼を言った。
「いや、中殿。先刻の―」
ユンは言いかけて言葉を飲み込んだ。
―そんなに宮殿での暮らしが辛いのか?
そう訊ねようとしたのだけれど、今、それを言ったところで、どうにもならないと判ったからだ。今すぐ彼女を自由の身にしてやれはしないのだ。それに、春花の口から
―あなたの側にはいたくない。
決定的な言葉を聞かされるのが怖かった。
春花が消え入りそうな声で続けた。
「本当は兄にもお逢いして頂きたかったのですが」
「そういえば、そなたには兄上がいたのだな」
婚礼前に新妻には兄と弟が一人ずついるという話は聞いた。
「兄は病弱なので、そういうわけにはいきませんでした」
「そう―なのか?」
他に言葉がなく、ユンは相槌を打った。
春花は袖に手を入れると、小さな人形を差し出した。
「殿下、よろしければ、これをお持ち下さい」
「これは―、仏のようだが」
春花は小さく頷いた。
ユンの手のひらに乗ったそれは、小さな小さな仏像であった。無骨な木彫りの仏だが、表情ははっきりしていて、何となくこの寺の本堂の御仏に似ている。
「兄にもお守り代わりに同じものを渡しています。病弱な兄を仏さまが守って下されば良いと。もしかしたら、殿下の御身も守って下さるかもしれません」
「もしや、この仏はそなたが彫ったのか?」
春花は言葉ではなく、頷くことで肯定した。
「殿下とご一緒していると、何故か兄上のことを思い出すのです。歳も容貌も違うのに、似ているような気がして。兄は優しすぎるくらい優しい人なので、家門を継ぐには向いていません。殆ど寝たり起きたりの生活で、父の跡を継ぐのは弟なのだろうと思います。その弟もまだ十歳になったばかりの幼さです。物心ついたときから、私は自分がしっかりとして許氏の家門を支えなければならないと思ってきました」
ユンは春花の言葉を最後まで聞いてはいなかった。彼の耳奥では
―殿下とご一緒していると、何故か兄上のことを思い出すのです。
今し方の科白がこだましていた。
「家門を支えなければならないというのなら、尚更、そなたは真の意味で王妃となった方が良いのではないか? 実家の義父上もおっしゃっていたではないか。王妃として一日も早く、世継ぎたる王子を産むように心がけよと」
少し意地悪な気持ちで言うと、春花が息を呑む気配が伝わってきた。
私は断じて、そなたの兄などではない。春花にそう叫んでやりたかった。自分という存在をこの娘が受け容れていないことはいやというほど知っているけれど、まさか、男として認識していなかったとは予想外だった。
「そなたの決意は、まだ変わらないのか?」
重ねて問うても、返事はなかった。ややあって、低い嗚咽が洩れてきて、ユンは愕いた。
春花は泣いていた。
「私は親不孝者です。領相大監も実家の父も口を揃えて、殿下の御子を産めと言います。でも、私にはそれができない」
ユンは少女の涙に胸をつかれた。別に泣かせようと思ったわけではなかった。ただ、良人の立場にいる自分を?兄?だと言い切った春花が恨めしかったのだ。
大人げないことをしたと思った。許修得は見かけは実年齢より更けて見えるが、まだ四十一歳である。実のところ、この自分とたいして変わらない。春花の病身だという兄は二十歳だから、正直、ユンは春花の兄というよりは父親の歳なのだ。
娘のような若い妻の気持ちを得られず、腹立ち紛れに妻を泣かせるとは、何ということだろう。ユンはこの場に春花がいなければ、髪を掻きむしりたい気持ちだった。
だが、と考える。たとえ春花が兄だと見なしていても、こうして手ずから作った仏像を贈ってくれるというのは希望の見える状況ではないだろうか。
おかしなものだ。三十九の子持ち男がたった十七歳の少女の一挙手一動に心を迷わせ、狼狽えている。これが他人であれば、ユンは腹を抱えて大笑いしてやっただろう。
昔から若い後妻の色香に血迷い、腑抜けた中年男の話は巷でもよく耳にする。そんな話を耳にするに付け、愚かなと一笑に付していたけれど、よもや、この自分がそうなるとは考えもしなかった。
しかも、自分がこんなにもこの少女に惹かれるのが何故なのか、彼は自分でも判らなくなりつつある。最初はむろん、領議政の仕掛けた罠にまんまと絡め取られたのだと思い込んでいた。
が、こうして春花とともに多くの時間を過ごしてみると、果たして自分が許春花という少女に惹かれているのか、それとも、明姫の面影をこの娘に重ねて見ているのか判別がつかなくなってしまう。
本堂を出てから、またも二人は何も話すことがなくなった。春花は元々、寡黙な少女だが、今日はいつもにも増して口数が少ない。
やはり、自分といるのがそんなにいやなのだろうかと考えはどうしても悪い方にばかり行く。対する自分はこの娘といるだけで、こんなにも心が華やいでいるというのに。
思わずまた大きな吐息を出しそうになり、ユンは軽い咳払いでごまかした。ふと視線を向けた先に、うす青紫の花が群れ固まって咲いていた。丁度、本堂から横の出入り口を出て短い石の階段を降りたすぐの場所である。
「綺麗だな」
ユンは独り言めいて言い、おもむろにその足許に咲く花の一輪を手折ろうとした。
「あっ」
春花が小さく声を上げたので、彼は弾かれたように面を上げた。
「どうかしたのか?」
彼女は自分が意に反して大きな声を出したのを恥じている風だ。白い頬に朱がのぼり、抱きしめたいくらい愛らしかった。
「申し訳ありません。でも、折角綺麗に咲いている花を摘み取っては、花が可哀想です」
刹那、彼の脳裏に遠いある日の光景が甦った。
広大な宮殿の一角、一面に散らばった桜草、それを一本一本拾い集めていた可憐な少女の面影。
―折角綺麗に咲いているのだもの、このまま棄ててしまうのは可哀想だから、持って帰って水に挿してみるわ。
優しい笑みを浮かべていた少女の声までもがありありと思い出せる。十八年の年月を経てもなお、色褪せることのない鮮やかな出逢いの一瞬だ。
作品名:身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~ 作家名:東 めぐみ