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身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~

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「義父上、一度、儀礼的なご挨拶は宮殿でしておりますが、こうして身近にお逢いするのは初めてゆえ、まずはご挨拶させて下さい」
 ユンは上座から男―春花の父許修得の下座に移動し、拝礼を行った。
「おっ、そんな、なりません、なりませんぞ。殿下、殿下が臣下にそのような」
 気の毒に、修得は禿げ上がった額に汗を滲ませ、今にも卒倒せんばかりの狼狽え様だ。
「今日は非公式でお訪ねしたのです。義父上は中殿の父であられるのだから、私にとってもまた父なのです。こうして儀礼を尽くすのは当然のことですから」
「父上さま、今日は市の筆屋で筆を求めました。清国渡りの良いものが手に入りましたので、お持ちしました」
 春花が筆の包みを渡すと、修得が笑み崩れた。
「そうか」
「兄上さまにお一つと父上さまにお一つ」
「それは嬉しいことを申してくれる」
 更に相好崩れそうになっていた修得が俄に表情を引き締めた。
「―と、そのようなことを言っている場合ではない。春花、そなたの気持ちは嬉しいが、尊い御身であられる殿下をこのような場所に気軽にお連れしてはいけない。公式のおなりで護衛が付いているならともかく、そなた一人では何事かあった時、殿下の大切な御身をお守りすることはできないだろう」
「父上さま、私は」
 何か言おうとする春花に、修得は言い訳を許さない。
「そなたはもう許氏の娘ではない。領相大監に差し上げ、引いては王室に嫁いだ身ではないか。王妃の立場として、まず第一に考えならなければならないのは国王殿下の御身の安全である。それしきのことが判らないで、国の母という重責が務まるとでも?」
 あまりに厳しい叱責を見かねて、ユンが割って入った。
「お言葉ですが、義父上、今回の訪問は私が中殿に頼みました。妻がどのような場所で生まれ育ったのかを是非、知りたいゆえ案内して欲しいと無理に頼み込んで押しかけのです。それゆえ、中殿をあまり叱らないでやって頂きたい」
「―」
 物言いたげな春花の視線に、ユンはそっと目顔で合図した。
―そなたは黙っていなさい。
「判りました。殿下のありがたいお言葉ゆえ、もう今日のところは叱りません。春花、いえ、中殿さま、あなたはもう先刻も申し上げたとおり、我が家とは何の関係もなき御身であらせられる。今後は実家のことなど忘れて、一日も早くこの朝鮮国のためにも、殿下のためにも健やかな王子さまをお生み奉ることだけをお考えになるように」
 修得は居住まいを正すと、ユンに深々と頭を下げた。
「このように後先も考えず行動する愚かな娘ではございますが、どうぞ、末永くよろしくお願い申し上げます」
 流石はだてに成均館の直講をしているわけではない。こうやってみると、貧相に見えた小柄な修得が一回りも大きく見えてくる。
「義父上のお言葉、肝に銘じます」
 と、春花が突如として叫ぶように言った。
「私、宮殿に帰りたくありません。父上さま、お願いです。私をこのまま家にいさせて」
 迸るように言葉が飛び出してくる。一度言い出したら、側にユンがいることなど忘れているようだ。
「お願いだから、このまま家に置いて。良い娘でいるから、私をもうどこにもやらないで下さい」
 最後の言葉は涙混じりになっていた。
 ユンは茫然として、すすり泣く春花を見つめた。
 まさか、そこまで嫁いできたばかりの妻が宮殿にいたくないと考えているとは想像できなかったからだ。
「何を馬鹿なことを言うのだ。殿下、真に申し訳ございません。まったく出来の悪い不肖の娘で、親の育て方が間違っていたのです。久しぶりに実家に戻り、気が動転しているだけですので、どうかお怒りにならないで下さいませ」
 修得は血の気を失った顔で取りなし、ユンは怒る気力もなく力ない笑みを返した。
「大丈夫です。中殿はまだ若い。その若さゆえ、このようなことを言うのでしょう」
 それからまもなく、二人は修得に門まで見送られて許氏の屋敷を後にした。門まで出てきた修得はの眼には光るものがあった。
 国王の花嫁選びが行われる際は、今回のように予め国中の両班の子女に禁婚令が敷かれる。そして、適齢期の娘たちの中から幾人か候補を選び、更に大臣たちが審査して最も望ましい娘を王妃として選出するのだ。
 これはひそかに言われていることだが、王妃にいよいよ選ばれた娘の家の者たちは、その吉報を慶事として歓ぶと同時に、泣いたという。これから宮殿という権謀術数渦巻く伏魔殿に娘を送り込まなければならない両親は娘を抱きしめて涙ながらに?おめでとうございます?と祝福した。
 ただ穏やかな幸せを得るというのなら、王妃などではなく、裕福な両班家に嫁いだ方がよほど良いのは判っていたからだ。王妃・国母という至高の存在、この国で女性としては最高の地位を手に入れる代償はあまりに大きかった。
 ましてや、春花の場合は元々、中殿に選ばれるような家柄の娘ではない。それが、ただ国王が寵愛した和嬪に似ていたというだけで領議政に眼を付けられ、半ば脅迫までされて王妃の座に据えられたのだ。王妃になるための教育も覚悟も何も教えられていないのだから、その戸惑いも大きかったに違いない。
 更に、その娘を後宮へと送り出す両親の心根も思えば哀れであった。修得の涙は何より、そういった娘を王妃として差し出した父親の心情を物語っている。
 しかも、表向き、春花は許氏からではなく名門ペク氏の娘として嫁いできたのだ。ある意味、既に実家との縁は切れていると言った修得の言葉は間違いではなく、領議政の手前、おおっぴらに宮殿に娘を訪ねることもできない修得の苦悩も察するに余りあった。
 今、別れたら、今度はいつ逢えるか判らない。見送る父親、見送られる娘、両者ともにその想いは同じであったろう。
 ユンは許氏の屋敷を辞してからの春花の沈み様が気になった。そっと横目で様子を窺うと、先刻の取り乱し様が嘘のように静まり返っている。それはまるで感情をどこかに置き忘れてきてしまったかのような感じだった。
 このまま宮殿に帰ろうとは言おうに言えないでいると、春花は何を思ったか、一人で勝手に歩いていく。ユンは戸惑いながらも、彼女の後を少し遅れてついていった。
 許氏の屋敷の近くに、比較的大きな寺があった。春花はあたかも一緒にいるユンが眼に入らないように一心不乱に歩き続ける。寺の山門が見えてきた時、ユンの予想は当たった。
 彼女は真っすぐに歩き、山門をくぐり寺の境内に脚を踏み入れた。夏の生温い風に揺られ、風鐸が鳴る音がどこか物哀しげに聞こえる。
 春花は迷いない足取りで本堂に入った。見上げるような大きな仏像が三体並んでいる。黄金色の仏は曖昧な微笑を浮かべ、ひっそりとユンを見下ろしていた。
 春花は仏前にきちんと座り、長い間手を合わせて何かを祈っていた。かと思うと、立ち上がり手を合わせ、また座り込んで両手のひらを上向きにするといった五体投地を繰り返している。
 ユンも彼女に倣って祈りを捧げたが、すぐに終わってしまったので、傍らで春花が祈り続けるのをずっと眺めていた。今は気の済むようにさせてやるのが一番だと思った。