身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~
彼はハッと我に返り、?いや?と小さく首を振った。その面に淋しげな笑みを刷いているのに気づいたのか、春花が重ねて問うてくる。
「何かお気に掛かることでも?」
「いや、ふと思い出したことがあるのだ」
思わず?膝枕をしてくれ?とあのときのように言いそうになり、自嘲の笑みを刻む。
―馬鹿な。この娘は幾ら明姫に似ていたとしても、まったくの別人なのだぞ?
現に自分が少しでも触れようとすると、鷹に今にも仕留められようとする野ウサギのように怯えた表情をする。
そう思えば、
―この娘が明姫であれば良かった。
もどかしさ、やるせなさ、娘への執着はますます募った。
そして、思考はまた堂々巡りをして、同じ場所に戻ってくる。
判っている。あの娘は明姫ではない。幾ら似ていたとしても、まったくの別人なのだ。なのに、理性ではそれをいやというほど判っていながら、この少女を眼にすると、つい明姫の面影を求めてしまう。
明姫によく似たあの美しい面にかつてのように優しい笑みを浮かべて自分を見つめて欲しい、想いに応えてくれと願ってしまう。
あの娘は自分に好意を抱いているどころか、私は嫌われているのではないか!
婚礼の夜はあのような綺麗事を口にしたけれど、あれはまったくの偽りにすぎない。現実として、自分はこの娘を?我が娘?として見ることなど、できようはずもなかった。心底では、今すぐにでも押し倒して美しいチマチョゴリを脱がせてしまいたい。豊満でやわらかな身体に己れ自身を奥深くまで沈み込ませたいと醜い欲望に震えているのだ。
しかし、あの夜、本音を口にすれば、この少女は二度と自分に笑顔を見せてはくれなくなる。警戒して、それこそ狼から身を守るように、身を翻して彼から逃げていくに違いない。そう思ったからこそ、少女を安心させるために、偽りを口しなければならなかった。
もちろん、すべてが出任せだったわけではない。春花が後宮を出て寺に入りたいと願う以上、その意に添うべく努力するつもりでいるのは本当だ。
この娘といると、ユンはまるで自分が自制心のきかない若者に戻ったようになる。かつて明姫を若さゆえの情熱で一途に求め、一夜に何度もその身体を貪ったときのような熱く猛々しいものが身体の中で暴れ狂うのだ。
良い歳をした分別のある男には、あるまじきことだと、殊更自分を年寄り扱いしようとするのは、ともすれば少女の身体に手を伸ばそうとする衝動と闘うための言い訳にすぎない。
彼の心の葛藤も知らず、春花は無邪気に言う。
「確かに埃だらけではありますが、掃除をすれば十分まだまだ使えそうですわ」
どうやら、この少女はユンが黙り込んだのは、部屋の汚さのせいだと勘違いしているらしい。
「そなたの言うとおりだ。それにしても、埃っぽいな」
ユンもまた春花の話に合わせ、悶々とした物想いはひとまず心の奥底に封じ込めた。
更に荒れた室内を見回しながら思う。
これは確かに掃除をする必要がありそうだ。だが、まさか王宮の内官や女官にここまで掃除に来るように命じるわけにもゆかない。ましてや、ここは彼だけの秘密の憩いの場所なのだ。若い頃は王宮に籠もりきりで息が詰まりそうになると、よくここに来て一人でこころゆくまで本を読みふけり、昼寝をしたものだ。
この場所を知っているのは宮殿広しといえども、ユンの他には、かつての内侍府長黄孫維とその息子で現在の内侍府長黄意俊だけである。
内官や女官にさせるわけにいかないのなら、自分でやるしかなさそうだ。別に身体を動かすのが嫌いなわけではない。宮殿の玉座で置物のように澄まし返っているのは、ユンの性分には合わない。
こうやってお忍びで町を歩き回っている方がよほど楽しい。しかし、世の大方の男と同じく、ユンもまた掃除といった細々とした仕事は苦手であり、できれば避けたいものの一つであった。
ひそやかな恋情
隠れ家を出た二人は、また無言で歩き始めた。王宮を出て、長い時間が経っている。そろそろ春花を連れて帰る頃合いだとは思っていたが、何となく帰る気になれない。このまま、ただの男と女―恋人同士のように春花と並んで町を歩いていたいと思う自分がいることを認めないわけにはいかなかった。
宮殿に帰れば、また自分と春花は?王と王妃?になる。そして、二人の間にあるのは形ばかりのよそよそしい夫婦関係だ。
「殿下」
唐突に呼ばれ、ユンは俄に現実に引き戻れされる。
「何だ?」
「私も一つ、お願いがあるのです」
「ホホウ、そなたが私にねだり事をするのは初めてだな。よしよし、何なりと言ってごらん。簪か、ノリゲか? それとも指輪かな」
春花なら、そのようなものを望むとは思えないながら、とりあえず口にしてみる。と、果たして、彼女は首を振った。
「いいえ、欲しいものがあるのではなく、私もこれから寄りたいところがあるのです」
「判った。私も付き合って貰ったのだから、そなたの行きたいところにも行けば良い」
「ありがとうござます」
春花は嬉しげに笑うと、足早に歩き始めた。よほど行きたい場所なのに相違ない。春花の考えていることなら何でも知りたい。まるで恋を知ったばかりの少年のように胸を轟かせている自分は、頭がどうかしているとしか思えなかった。
かなり歩いた頃、家並みが途切れ、都の外れに出たのだと知った。春花は迷いのない足取りで歩いていく。その中、彼女は一軒の家の前で歩みを止めた。
両班の住まいではあるらしいが、こぢんまりとした屋敷は質素である。しかし主人の趣味の良さを物語るかのように、気持ちの良い、よく整えられた庭と空間がそこにあった。
小さな門から入り、これもさして広くない庭を突っ切っていく。玄関で春花が声をかけると、四十ほどの執事らしい男が姿を見せ、春花の背後に立つユンを見て細い眼をみはった。
待つ間もなく、奥から小柄な男がまろぶようにやって来た。
「こっ、これは殿下。このようなあばら屋にお越し賜り、恐悦至極に存じます」
男はボウとしている執事に泡を飛ばしながら命じた。
「何をしている。早く殿下を客間にご案内するのだ」
直ちに客間に案内されたユンは改めて室内を見回してみる。外観を裏切らない室内は訪れた客を歓待し寛がせるような趣味の良い内装だ。
派手すぎない墨絵の山水画を描いた屏風が上座の座椅子(ポリヨ)の背後に飾られ、片隅の紫檀の小卓には鉢植えの紫陽花がさりげなく置かれていた。
深い海色に染まった紫陽花が見た目も清々しく、心まで洗われるようだ。いや、この気持ちよく整えられた小さな屋敷そのものが訪れる人を心から憩わせるような、ゆったりとした雰囲気がある。
このような雰囲気で育ったのなら、春花が聡明で人柄が控えめなのも頷ける。律儀なのは見かけだけではないらしい男は早速、ユンを上座に座らせ、自身は畏まって拝礼した。
「我が許氏の屋敷に国王殿下をお迎えできるとは、我が家門始まって以来の誉れでございます。真に聖恩の限りに存じまして―」
放っておけばいつまでも続きそうな長口上に、ユンは内心苦笑する。
「わっ、私めは春花、いえ、中殿さまの父でございまして」
作品名:身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~ 作家名:東 めぐみ