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身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~

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 少女が金を払おうとするのに、店主は呵々大笑した。
「代金は良いですから、また、今度もうちの店をご贔屓にして下さいよ。奥さま」
 なかなか商売上手の親父のようである。
「判ったわ。また、必ず来ますね」
 彼女はにっこり微笑み、丁寧に主人に挨拶すると、また雑踏に紛れて歩き出した。ユンは少女の後を慌てて追いかけた。
「中―」
 中殿と言いかけて、流石に口を噤んだ。こんな町中で身分の知れる言葉は慎むべきだ。
「春花」
 名を呼ばれて、少女が振り向く。そこにユンを認めて、彼女は黒い瞳を一杯に見開いた。
「チ、チョナ」 
 シッと人差し指を春花の唇に当てた。
「ここでは身分が露見するような言葉は使わない方が良い」
「は、はい。旦那さま」
 春花は素直に呼び方を変えた。
「中宮殿を訪ねてみたら、そなたは具合が悪いと寝所に引きこもっている。だが、布団の中はもぬけの殻で流石に愕いた」
 その言葉に、春花が一瞬で蒼白になった。
「も、申し訳ございません」
 今にも泣き出しそうに眼を潤ませている顔はなかなか可愛らしく、そそられる。しかし、少女を泣かせる嗜好はユンにはまったくない。
「別に咎めているわけではない。そなたのお陰で、こうして私も実に久しぶりに町に出てみる気になったのだから」
 ユンは明るく言い、春花を見た。
「だが、一人でそなたが町中を徘徊するのは、あまり感心しない。どうしても行きたいときは、伴の者を連れていくか、私に言いなさい」
「はい」
 春花は今度もあっさりと頷く。ユンは春花の全身に眼を走らせ、微笑んだ。
「そなたのそのような姿は初めて見る。王妃の盛装も美しいが、今日の姿も可愛らしくて良いな」
 今、春花はいかにも若妻らしい若草色のチョゴリと牡丹色の華やかなチマを纏っていた。どこから見ても、良家の若夫人といった風で、結い上げた黒髪が匂いやかな色香を漂わせている。
 ユンはいつになく気持ちが高揚しているのを自分でも自覚していた。先刻、春花は筆屋で四本の筆を買い求めていた。その中の三本は父と兄、自分用で、残りは?旦那さま?のものだと言っていたのである。その筆を贈られる幸せな旦那さまが他ならぬ良人である自分だというのは判った。
 実家の父や兄を思い出すのは当然かもしれないが、同時に自分のことも考えてくれた―と思うだけで、情けなくも頬が緩んでくる。
 これでは娶ったばかりの若い妻に腑抜けていると臣下たちに陰口を叩かれても仕方ない。時折、領議政のしてやったとほくそ笑む顔がちらつき、我が身の不甲斐なさに歯がみすることもある。
 明姫に酷似した若い妻を送り込むという領議政の試みは見事なまでに成功したといえる。ユンはこれが罠だと知りながらも、春花という美しく魅惑的な罠に夢中になってしまった。あれほど領議政の策略には乗るまいと警戒しておきながら、この体たらくだ。
 ユンはふと思いついて、春花にそれとなく言った。
「これから寄ってみたいところがある。そなたも少し付き合ってくれ」
 春花は少し訝しげな顔をしたものの、素直に頷き、ついてきた。二人はしばらく黙って並んで歩いた。かつて明姫と歩んで見た市の光景が眼前のものと重なる。
 こうして春花と町並を眺めながら、彼は自分を取り巻く世界が漸く灰色の無味乾燥なものから、本来持つ鮮やかな色彩を取り戻したのを感じていた。
 十八年もの月日が流れたとは信じがたいほど、何もかもがあのときと同じに思え、ユンは感慨深く眼に映るものすべてを眺めた。明姫を失ってからというもの、民情視察と称した町へのお忍びも一切止めた。
 本当に彼女がいない月日は彼にとって無味乾燥な意味をなさないものに等しかった。新しい側室を迎えたのも子をなしたのも、それが国王たる自分の義務だと思ったからだ。
 心から欲し抱きたいと願うのは、今も明姫だけだ。だが、その明姫は今はもう遠い手の届かないところにいる。
 ユンはそっと傍らを歩く春花を見た。こうして見ても、春花は在りし日の想い人にそっくりだ。春花と漢陽の町並みを歩いていると、時がそのまま遡ったような錯覚に囚われてしまう。明姫は死んだのではなく、長い長い旅に出ていて、やっと手許に戻ってきたのではにないかと思いたくなる。
 と、ユンは春花もこちらを見ているのに気づいた。何かに怯えたような瞳で自分を見上げている。ユンの視線に気づいていたのかもしれない。
「顔色が悪い。どうかしたのか?」
 ユンが手を伸ばして頬に触れると、春花が?いやっ?と悲鳴を上げた。ついで、ユンの手は強い力で振り払われた。
「―」
 腹が立つというより愕いた。何故、頬に触れた程度でこのように嫌がられるのか判らない。確かに初夜の床では二人の間に何もなかったし、今でも彼は律儀に?娘のように扱う?といった約束を守っている。
 しかし、何も頬に触れるくらいの軽い日常的なふれあいまで拒まれるとは考えていなかった。大体、父と娘の間なら、このくらいのふれあいは日常的なものだろう。
 自分はそこまで春花に嫌われているのだろうか? そう思うと、やはり、あまり良い気はしない。
 気まずい沈黙が落ち、後はひたすら前を向いて歩く。ほどなく二人は賑やかな往来を四つ辻で曲がり、人気のない路地に入った。その突き当たりに、それはあった。
「ここだ」
 ユンは言いながら小さな小屋の扉を開けた。それでも十七年前に明姫と来たときは、ちゃんとした家の体裁を保っていたが、寄る年波には彼の?隠れ家?は掘っ立て小屋と変わらなくなってしまっていた。
「久しぶりだな」
 ユンは懐かしげに言い、狭い室内をゆるりと見回した。外観はかなり荒れてはいるものの、幸いにも室内は考えたほど痛んではいなかった。これなら雨露も十分凌げるだろうし、少し手入れすれば、また使えそうだ。
 ただし、あまりにも長らく放置していたため、室内の汚れ方は酷いものだった。埃がうずたかく積もり、蜘蛛の巣が目立つ。
「少し待っていなさい」 
 ユンは自らの手で造作もなく床の埃を払い、人が座れるくらいの場所を作った。
「殿下、そのようなことをなさっては御衣が汚れます」
 春花が狼狽えた声を出す。
「別にたいした汚れではない。さあ、座って。そなたの方こそ、きれいなチマが汚れるかもしれないが」
 が、春花はチマの汚れにはさほど頓着しないようで、素直に床に座った。
「お訊きしてもよろしいでしょうか?」
「うん?」
「ここは何なのでしょう?」
 国王が気軽に足を運ぶような場所でないことは確かだ。ユンは笑いながら応える。
「隠れ家だよ」
 かつて明姫に言ったのと同じ言葉を話している中に、またもユンは奇妙な想いに囚われていた。もしかしたら、自分は長い夢を見ていたのではないか。明姫がいなくなったのは悪い夢で、今、夢は醒めて、愛しい女は自分の許に戻ってきたのではないかと。
 ここを初めて訪れた日、ユンは明姫に頼み込んで膝枕をして貰った。明姫の膝はやわらかくて、温かかくて、彼が幼時から切ないほど欲してもけして得られなかった母の温もりを束の間、与えてくれた。
「膝枕」
 呟くと、春花が愛らしく小首を傾げた。
「何か仰せになりましたか?」