身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~
この大勢の民たちのためにも、自分は良き王であらねばならない。王や両班だけが私利私欲に走ることなく、この国の根幹をなすのがこの大勢の貧しい民たちなのだとけして忘れてはならない。
ユンは強く己れに言い聞かせ、忙しそうに行き交う通行人の間を縫い、ゆっくりと歩き始めた。
「旦那さま(ナーリ)、うちの饅頭は美味しいですよ、お一つ、いかがですか?」
ふいに脇から声をかけられ、ユンはつられるように声のした方を向いた。四十前後のふくよかな体格をした女が丸っこい顔に人の好さげな笑みをひろげている。
どうやら、蒸し饅頭を売る露店らしい。
「うちの饅頭は漢陽一だと評判が高くてねぇ、昼までに買わないと売れ切れちまいますよ」
どこまでが本気か判らないようなことを、さらりと真顔で言う。ユンは破顔して頷いた。
「どれ、一つ貰おうか」
「はい、ありがとうございます」
女は紙袋にまだ湯気の立つ蒸し饅頭を数個入れて渡してきた。ユンは袖から巾着を出し、相応の金を払うと、代わりに紙袋を受け取る。早速、その場で一つを取り出し、ひと口頬張った。
「いかがですか?」
女主人が問うのに、ユンはまた笑った。
「美味い。これは漢陽一ではなく、朝鮮一ではないか」
と、女が丸顔を綻ばせ、太った身体を揺すって嬉しげに笑う。
「そりゃあ、幾ら何でも褒めすぎですよ。旦那さま」
「いやいや、世辞などではないぞ。どれ、ついでに、そっちの揚げパンもくれ」
この店で売っているのは蒸し饅頭だけではなさそうである。揚げパンを指すと、女は更に嬉しげな表情になった。
「毎度」
また紙袋に幾つか揚げパンを入れて渡してくれるのに、今度は多めに金を支払う。
「あれま、旦那さま、こんなに頂くわけにはいきませんよ」
「良いのだ、何も言わずに納めてくれ。これでも朝鮮一の蒸し饅頭の代金には少ないほどだから」
「そうですか? それじゃ、ありがたく頂戴しときますね」
女はいっそう人の好い笑顔で礼を言った。
「また寄って下さいね。今度はもっとおまけしますから」
女の愛想の良い声を背に、再び歩き始める。
ユンは紙袋からまだ熱々の揚げパンを取り出し、囓ってみる。ほのかな甘さが口の中に広がり、それは彼に胸狂おしいほどの懐かしさを呼び起こした。
揚げパンは明姫の大好物だったのだ。そういえば、明姫と昔、町に出たときもこうやって揚げパンを露店で買い求め、二人で食べたものだった。
あれから十八年以上もの星霜を重ねたのだ。気の遠くなるような長い日々をよくも明姫なしで生きてこられたものだ。
今も眼を閉じれば、明姫の生き生きとした笑顔が瞼に甦る。二人でこうして町の賑わいを冷やかしながら歩き、ユンがお忍びで町に出たときに立ち寄る?隠れ家?で揚げパンを食べたのは、つい昨日のことのように思えるのに、現実には十八年という年月が流れている。
既に明姫はこの世になく、自分は亡くなった娘とはいえ、その長女と同じ歳の若い妻を後添えに迎えた。明姫とともにここを歩いた若き日に、そんなことを想像したことがあっただろうか。
もう、本当に明姫はいないのだな。かつて明姫とともに歩いた都大路をこうして一人で歩いてみると、今更ながらに想い人不在の長い年月と孤独を思い知らされるようだった。
その時。ユンは澄んだ声音にいざなわれるように振り向いた。
往来の両側に様々な店が出ているが、少し後方の左側に筆屋があった。商っているのは筆だけではなく、紙や硯、墨といったものも幅広く置いているようである。
「これは何の毛でできているのですか?」
その見憶えのある華奢な後ろ姿に、ユンは思わず笑みを零しそうになった。
「馬ですよ、お嬢さま」
店主は五十年配の如才なさそうな、いかにも商売人風の男である。
「馬ねぇ」
思案に暮れる娘に、店主はここぞどばかりに熱心に説明する。
「馬は馬でもそんじょそこらの馬じゃない。清国の大草原を走り回っている駿馬の毛でこしらえた筆ですぜ。そんな逸品はこの漢陽といえども、滅多に手に入りませんからね」
「清国の大草原を走り回っていた?」
その大袈裟な物言いがおかしかったのか、少女はクスクスと声を上げて笑った。
「お嬢さま、あっしが嘘をついてるとお思いなんでしょうけど、これは正真正銘の清国渡りの筆ですぜ」
店主もムキになったように言い募る。ユンは二人のやりとりを少し離れた場所から興味深く見物していた。
「良いわ。その清国渡りの筆とやらを下さい」
「へい、お幾つご入り用で?」
「そうね、四本頂こうかしら」
「そりゃあ、どうも、ありがとうございます。しかし、そんなにご婦人が筆をお買い求めになるんで?」
当時、男性はともかく女性はそれほど学問の必要を認められていなかった時代である。両班の子女といえども、必要最低限の教養さえ身につけていれば良いとされていたのだ。
店主の言葉に、少女は微笑んだ。
「こう見えても、私は文字を読んだり書いたりするのが好きなの。だから、一つは自分用で、後はお土産に。父と兄とそれから、旦那さまの分を」
店主がギョロリとした眼を更に大きく見開いた。
「こいつは失礼しました。お若いんで、てっきり未婚のお嬢さまかと思っていたんですが、そいつは奥さまとお呼びしなきゃなりませんね」
未婚の娘であれば長い髪を結い上げていないはずだが、少女は後頭部で一つに纏めている。その髪型を見ただけでも、既婚婦人だと判りそうなものだが。
しかし、彼女は気を悪くする様子もなく、笑った。
「良いのよ。気にしないで」
「お嬢―、おっと、いけねぇ」
男は頭をかき、言い直した。
「奥さまのような美人のかみさんを貰った旦那は果報者だねぇ。うちの息子の嫁にも、こんな嫁さんが来てくれりゃあ、言うことないんだけどね」
ユンは微笑ましい気持ちで、二人の会話を聞いていた。あれくらいの年頃は普通、筆より簪やノリゲといった装身具を欲しがるだろうに、寄りにも寄って筆を欲しがるとは、やはり風変わりな娘だ。
そういえば、と、ユンは懐かしい想いで記憶を手繰り寄せていた。明姫もまた、そういった装飾品にはまるで興味を示さなかった。
一風変わっているところまで、この娘は明姫に似ているらしい。だが、明姫は難しい漢籍や書物は見ただけで頭が痛くなるといつも零していた。
その点は成均館の教師を父に持つ春花と決定的に違うところだ。しかし、それは当然のことであった。春花は春花であって、明姫ではない。幾ら容貌が同一人物としか思えないほど似ていても、根本的にはまったくの別人なのだ。そんな二人がすべて同じはずがない。
そして、ユンは自分がともすれば春花を明姫に重ね合わせて見ようとしていることに気づき、愕然とした。
「旦那さまって、もしかして、新婚かい?」
店主の無遠慮な問いかけに、少女の白い頬が一瞬染まった。
「ヘヘ、そいつは熱いねぇ。ご馳走さまで」
店主は奥に一旦引っ込むと、手に何か持ってきた。
「清国渡りの高価な筆を四本も買い上げて下さったからね。これはおまけ。硯と墨だけど、こいつも清国産だよ。結婚祝いに持ってて下せぇ」
「まあ、でも、こんなにして貰っては申し訳ないわ」
作品名:身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~ 作家名:東 めぐみ