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身代わりの王妃~続・何度でも、あなたに恋をする~

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 それでも、つい中宮殿に足が向いてしまうのは、我ながら現金なものだと苦笑いが浮かんでしまう。五人の側室たちの中、もう十八年も前に迎えた向かえた古参の二人はともに三十代、童女のようにあどけなく見える温嬪も既に三十半ばを過ぎている。
 後から後宮入りした三人は皆、二十代半ばほどだ。どの側室も今回迎えた王妃よりは年上である。前の王妃が生きていた頃は殆ど中宮殿には寄りつきもしなかった国王が今度は新王妃の許に足繁く通っている。その噂は早くも後宮ばかりか朝廷にも広まっていた。
―殿下もやはり男、若い中殿さまに夢中になっておられるようだ。
―それに、何と言っても、新しい王妃さまは和嬪さまにうり二つ。あれだけお似ましになっていたら、殿下がご寵愛なされぬはずがない。
 かつての直宗の和嬪への度を超えた寵愛ぶりを知る者が多いだけに、こういった会話が至るところで聞かれるのはもっともといえた。
 嘉礼を挙げてから半月を経ている。
「中殿はどうされている?」
 ユンの訪れを察知したお付きの尚宮が慌てて出迎えに庭までやってきた。ユンは機嫌良く尚宮に訊ねた。すると、どうにも尚宮の表情が冴えない。
「いかがした? 中殿はどうしたのだ」
 ユンが重ねて問うと、尚宮はしどろもどろで応えた。
「それが今、中殿さまは午睡中でいらっしゃいます。少し頭が痛いと仰せになっていたので、誰も近づけぬようにしてお寝みになっています」
 ユンが怒鳴るように言った。
「それで、薬は飲ませたのか? 内医院の医官には診せたのであろうな」
「いえ、それはその―」
「では、医官にも診せず、手をこまねいて眺めていただけだと申すのか? 漸く中宮殿に主人が戻ってきたというに、中殿の身に何かあったら、どうするのだ!」
「申し訳ございません。私を厳罰に処して下さいませ」
 尚宮がその場に跪いた。
「そなたを罰しても、中殿の具合が良くなるわけではない」
 ユンは憤懣やる方になしに言い、大股で庭を横切り、足早に中宮殿の階を上った。
「殿下、お待ち下さいませ。ただ今、中殿さまは」
 尚宮が追いついてきて必死の形相で言い縋る。
「たとえ何人もご寝所にはお入れにならぬようにと厳命を受けておりますれば」
 その言葉にユンは更にカッと頭に血が上った。
「私と中殿は夫婦だ。良人が妻の寝所に入ったからといって、誰が咎めるのだ?」
 構わず尚宮を振り切り、王妃の居室を通り抜け、その先の寝室の扉に手を掛けた。尚宮と女官二人がその背後にいたが、彼女たちには背を向けていたため、刹那、彼女たちが万事休すといった体で目をつぶったのには気づかない。
「中殿、入るぞ。具合が悪いと聞いたが、大丈夫―」
 扉を開け声をかけたユンの眼に映じたのは、寝所の奥に整然とのべられた絹の夜具だった。王妃は掛け布団を被っている。頭まですっぽりと被っているためか、布団はこんもりと人の形に膨らんでいるけれど、顔がまったく見えない。
 やれやれ、本当に子どものような娘だな。
 ユンは苦笑めいた笑いを刻み、布団に近寄った。
「中殿、具合が悪いと聞いて―」
 そこでユンは不自然さに漸く思い至った。小山のように膨らんだ布団の形が人ひとり寝ているとは信じられないほど歪だ。
 ユンは咄嗟に上掛けをめくった。案の定というべきか、掛け布団の下に中殿はいなかった。大きな枕を縦向きにして置き、上から掛け布団を掛けていたのだ。なるほど、こうすれば、遠くから見れば、人が中に寝ているとごませかる。
 つまり、寝所はもぬけの殻で、具合が悪いと寝ているはずの妻はどこかに消えていた。
「中殿はどこだ?」
「―」
 年老いた尚宮は涙を浮かべて首を振るばかりだ。
 ユンは嘆息混じりに言った。
「私はそなたらを責めるつもりはない。長年、後宮に仕えてきたベテランのそなたが中殿がいなくなるのに気づかないはずはない」
 つまり、尚宮は予め王妃がいなくなるのを知っていたというわけである。それはまた、尚宮たちが王妃脱出に手を貸したことでもあった。
「申し訳ございません。私どもを死刑に処して下さい」
 三人が並んで頭を下げるのに対し、ユンは溜息をついた。
「先刻も申したように、そなたらを罰したところで、何の益もない。ただ、金尚宮、一つ言っておくが、そなたらが内密に中殿を後宮から抜け出させたことで、中殿の身に危険が及ばないとは限らぬぞ? もし、後宮を出ている最中に何かの事件や事故に巻き込まれたら、どうする?」
 畳みかけるように言うと、とうとう若い女官の一人が泣き出した。
 その泣き声がきっかけとなったように、尚宮が重い口を開いた。
「申し訳ございません! 実は中殿さまがどうしてもお忍びで町にお出かけになりたいとおっしゃり、私どももお止めはしたのですが」
 中殿が尚宮の制止を振り切って出かけてしまったということだろう。
 それにしても、たいしたじゃじゃ馬だ。見かけは明姫とうり二つだが、気性はまるで対照的と思っていたら、何のことはない、清楚で可憐な美少女の癖に、怖い者知らずなところまでそっくりとは。
 ユンは怒るよりも笑い出したくなり、慌てて表情を取り繕った。自らの責任を感じて涙に暮れる尚宮たちの前で取るべき態度ではない。
 気の毒なのはむしろ犠牲になった尚宮や女官ではないか。ユンは笑い出したいのを必死で堪えたせいで、頬がひくつくのには苦労した。
「中殿は若くても、聡明だし、しっかりしている。待っていれば、その中に戻ってくるであろう、そなたらは中殿不在を他の者にはくれぐれも悟られぬように」
 ユンはわざと重々しく言い残し、内心は走り出したいのに、ゆっくりと歩いて立ち去った。
 尚宮にはああ言ったものの、このまま手をこまねいて宮殿で待っているつもりなどない。この際だから、久しぶりに町に出てみるのも良い。ユンは久々に弾んだ心を自分でも持て余しながら、尚宮たちから見えない場所まで来ると、足早に歩き始めた。

 あらゆるものの入り混じった雑多な匂いが人いきれの中に立ちこめている。しかし、それは彼に不快さよりも懐かしさを感じさせていた。
 ユンはこの生活感溢れる匂いと、それらを醸し出す空間を昔から愛していた。今、彼の眼前には久しく眼にしなかった漢陽の町並みがひろがっている。
 声高に客を呼び込む鶏肉屋の主、その隣でこれも負けじと声を張り上げる小間物屋の若い男。いかにも若い女が好みそうな華やかな色合いのノリゲを手にして、うっとりと見つめている十八、九の娘。
 その横を十歳くらいの女の子の手を引いた中年の女房が忙しげに通り過ぎていく。
 かつては見慣れていたはずのこの町の光景に、彼は軽い衝撃と感動を憶えていた。貧しくとも日々を懸命に生きていこうとする人たち、この国は王族や両班と呼ばれるひと握りの特権階級の人々たちではなく、この者たち―大勢の民によって作られている。
 そう心から実感できる一瞬だ。
 私の国の大切な私の民たちだ。ユンは活気に満ちた人々の表情を見る。皆、粗末な着物を身につけているけれど、その表情は存外に明るく屈託がない。