魔獣物語〈序章〉
男の服はズタズタで、幾つかの小さな布切れが、かろうじて体に纏わりついているのみ。虚ろな目は焦点を結んでおらず、半開きの口からは涎がこぼれていた。
まともな人間ではない。
誰が見てもそれがわかるほど、男は全身から異様な雰囲気を醸し出していた。
慌てふためいた村人達は、逃げ場を求めて右往左往するが、背後は切り立った崖である。逃げられるとすれば、先程、通ってきた村に続く道だけなのだが、それはこの不気味な男の背後にある。
「何なの、この男!?」
思わず叫んだタミナの言葉に答えたのは、ダンだった。
否、タミナに答えたというより、カナに話しかけたと言った方が正しい。
「魔人だ、カナ。気を付けろ。」
落ち着いた声である。この場にいる人間の誰よりも、彼は落ち着いていた。
魔術師は常に冷静であれという父の教えが、彼の子供らしくない冷静沈着な性格を作り上げていた。
どうやら、父達に加勢に行くには、まずこの男を倒さねばならないようだ。
ダンは集中し、魔法力を高めた。
「魔人!?魔人って、なんだ!?」
ダンほど冷静ではないカナは、動揺した声でダンに訊きかえした。
それでも抜剣し、素早く身構えるあたりは、さすがである。
「魔獣化した人間の事だ。人間だって、魔獣化する事はあるんだ。ごく稀にな!」
ダンは空気の流れを掴み、それをコントロールするように魔法力をこめた。
すると、風は刃となって、魔人に襲い掛かった。鎌鼬の魔法である。
ダンの作り出した鎌鼬は、魔人の皮膚に無数の裂傷を与えた。だが、大したダメージではない。魔人の全身からは血が滴り、一見すると派手に見えるが、ひとつひとつの傷は浅い。
魔人がその攻撃に一言の声も漏らさなかったのは、魔獣化によって恐怖を感じる神経が麻痺していたせ いなのだが、そうでなかったとしても、悲鳴は起こらなかったかもしれない。
しかし、次の瞬間、カナが大地を蹴って、魔人に飛び掛かった。