Grass Street1990 MOTHERS 27-36
「……あんた、これ以上何が望みって聞いたわね、教えてあげるわ、」
平田は泣き声になった……
「……私の……私の、親を返して……パパ、ママって、私が……呼べる親を……」
……困った、俺はついに平田まで見れなくなった。だからといってズボを見つめるような愚かな真似はできないし……一体俺はどうしたらいいのだ。
けれど俺はズボなんか見なくてすんだ。
平田の後ろに、どうしても見なければならないものが現われたからである。
……けれど、ズボを見た方が余程マシだったかもしれない……
……顔の右半分を血で黒く染めた平田時江を見るよりは……
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時江は、手に見覚えのあるナイフを握っていた……輝久がさっき取り出した……死体から奪ってきたのか……黒沢監督がまた『羅生門』を撮る気になったら、老婆の役者として時江を推薦しよう。真に迫った演技を見せるはずだ……
……そして彼女は、おそらくはガラスの細かい破片でラメのように輝く服を引きずり、左目だけを異様に光らせて、自分の娘の方にまっすぐ進んでいた。
「平田、後ろ!」
俺の声に反応して振り返った平田は、母親を見て恐怖で凍りついた。
時江は、ゆっくりと進みながら、かすれた、けれどはっきりと聞こえる声でつぶやいていた。
「……芳美が……電話で……青山のこと聞いてきた……から……笑って答えてやった……頭を撃ったって……あたしの大事な男がされたように……頭を撃たれて……見殺し……電話で……自分の娘を殺すの……それに比べれば……あんな女……みんな……」
……そうか、琥珀でのあの台詞は、殺したということじゃなくて、後の予定のことだったのか。
『自分の娘を(これから)殺すことに比べれば、あんた達を撃つなんて簡単』……
平田は、逃げる様子を見せなかった。身体がこわばったままだった。無理もない。俺ももしあんな風に元彼女が迫ってきたら、決して動けはしないだろう。失禁するかもしれない。
「だめだ!」
俺の後ろで、ズボが駆け出した。
時江は何にも構わず、ゆっくり、ナイフを振り上げた。
間に合わない! ……そうだ!
俺は、ポケットから銃を取り出した。安全装置を外し、とっさに、時江の2メートル右、カウンターの、オールドパーのボトルの列を狙って、撃った。
思ったよりもずっと強い衝撃で俺は身体のバランスを崩し、弾は、その2つ上の列の、カミュに当たった。
ボトルが2つ割れた。
たいした音はしなかった。
けれど、俺は状況も忘れて驚いた。なんて衝撃だ。4歳の女の子なら肩の骨を外さなかったのが不思議なくらいだ……
時江はナイフを振り上げたまま、こちらを見た。そして、赤ん坊のような声で叫びながら俺に向かって、早足で歩いてきた。
「あんたも……芳美と……グル……あたしの……邪魔……」
俺はパニック状態に陥った。……どうすればいい? ……恐い!
……撃つのか? ……撃てない! ……恐い! ……撃てない!
時江が近づいてくる。ナイフを振り上げ、俺の首のあたりだけを見つめて……
……撃てない……そうだ、足なら……だめだ!
もう遅い……
俺が覚悟して目をつぶった瞬間に、銃の発射音がした。
そして次の瞬間、こっちへ向かってくる時江の気配が、右へ吹っ飛んだ。
……目を開けると、時江は、俺のすぐ前のソファに倒れ、しばらく低くうなってから床に落ちた。
右肩に当たったらしい。血が出ていた。
……平田芳美は、銃を撃った姿勢のまま、身体を震わせていた。
悲しい顔だった。それは、さっき勝ち誇った時に一瞬見せ、すぐに消した表情……
……そう、今夜彼女は、母親に対して最後の賭けをしたのかもしれない……そして完璧に負けた。
時江は娘が、勝手にだが与えた『ママと呼べる』最後のチャンスを否定し、あっさりと青山を撃ち殺した……そして、それを娘に笑って話した……さらに……
……これから、あんたを殺す……
ズボが、後ろからゆっくり彼女の銃を取った。彼女は、何の抵抗もしなかった。
俺は平田に近づきながら考えた。この子は、俺を助けてくれたのだろうか?
それとも、母親を助けるために撃ったのだろうか?
……もう、どちらでもいいか……
「……平田……」
俺は、動かなくなった時江を横目で見ながら言った。
「あれが、お前の親なんや、気が狂ってるかもしれない。人を殺した、お前や俺も殺そうとした。でも、あれがお前の母親や、いいも悪いもない、お前に責任もない……そして……」
俺は涙が出そうになるのをこらえ、急いで続けた。
「他人のために罪をかぶったお人好し……それに、娘からの電話にじっとしておられず、永田のところへ駆けつけた……それが、お前の父親……ただ、それだけや……あそこにいるのも、」
俺は、川本親子を見た。
「とんでもない勝手な論理で、自分の娘だけを守ろうとした……お前を殺そうとまでしたかもしれない。でも、あれも、親や………本当に、ただ、それだけなんや……」
平田は、全く反応しなかった。俺の台詞を理解したようには見えなかった。
親にならない限りは無理なんだろうか。
……いや、そんなことではない。どこにも、答はないのだ。
俺は、正しくはない。
それどころか、正しいことに、意味はない。
俺は平田に背を向けて、ドアの方に歩いた。床に落ちていたナイフを拾いながら、俺は考えを巡らした。
……人が本気で守ろうとするものは少ない。守れると信じられるものも少ない……
けれど守り切れるものはあるのだろうか。少なくとも俺は、守りきった人を見たことがないが……
谷岡も、石川も……川本……平田……
ならばなぜ、俺達は守ろうとするのか……
……いや、それとも、だから……
ズボは、平田の銃をクリーム色のジャケットのポケットに入れ、俺の後ろまで来た。俺は、ナイフを銃の入っている右ポケットに 入れた。2つの人殺しの道具が触れ合う、不快な音がした。
俺は、川本親子の前で立ち止まった。母親の昌美は目を伏せ、娘の川本は俺達をじっと見ていた。
「あっちの親子は……頼む。救急車も呼んでくれ。」
俺は、川本の目に負けそうになりながら言った。
「……それと、自分のママもな。」
「……先生……」
「……いいよ、もう、」
俺は、川本が何を言っても、自分が泣いてしまう気がしていた。
「……それに、ここからは何もできん……本当にな……なあ、ズボ。」
ズボは黙ってうなずき、振り返って平田芳美を見た。
彼女は、ズボが座らせたのだろう、ソファの背に、もたれかかって座っていた。視線は天井の方を向いたまま、どこにも合っていなかった。
俺達はうなだれたままPSを出た。
谷岡には何が何でも生きていてほしかった
……娘のために……
そして、同じく娘のために……
ただ娘のためだけに、
時江が撃たれたのが肩で良かったと思った。
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作品名:Grass Street1990 MOTHERS 27-36 作家名:MINO