Grass Street1990 MOTHERS 27-36
俺はゾッとしてズボを見た。いくら鈍感な奴でも気付いたのだろう。血の気を失った顔をしていた。
川本は3メートルほど左で声を殺して泣いていた。
俺は再び右ポケットに手を入れ、川本に近づいた。たとえ何の役に立たなくも、何かしなければならない時はあるのだろう。俺はそんなことには慣れているつもりだ。
なぜなら、教師としての毎日の生活がそれなのだから。
ところが、そんなに謙虚な俺がすぐ隣に立っても、川本は全く俺に気付いた様子はなかった。失敗した。そういえばこいつも生徒やった。それに、泣く女の専門はズボの方やったし……今からでも奴と場所を交代できないだろうか。
と、その時、川本は突然顔を上げた。一瞬身体を震わせてから、彼女は俺が聞いたことのないような鋭い声で母親に向かって叫んだ。
「……みんな、みんなママの思い通りになった!」
マトモに神経に触る空気がその場を支配した。心が剥き出しになる空気……呼吸もしたくなくなる空気……
「黙りなさい、何を言ってるの、良美は。」
昌美は、俺達の方を横目で伺いながら、すぐに感情を押さえた声で言った。
「どんなつらいことがあったにしても、言っていいことと悪いことがあるでしょう……」
そして俺を見た。
「……先生、そうですね。」
「……生徒指導に来たわけではありませんからね。」
甘いわ。さっき俺の挨拶を無視しておいて、今になって利用しようとしてもそうはいかない。それに、教師としての立場があったらこんな時間に川本の隣に黙って立っているわけがない。午後十時過ぎれば高校生は補導の対象となるのだ。俺は『校外補導員証』を持っている男である。まだ使ったことはないが。あれは映画がタダで見れるらしい。
「……それに、良美さんが味わったのは、『つらいこと』なんていう程度のものやなかったですよ。」
「僕等は警察の真似をするわけではないです。」
ズボが低い声で言った。
「良美さんに頼まれたんです。きっと、自分ではどうにもならないことに気付くか、巻き込まれるかして……」
「でも、何の役にも立たなかった……」
俺は川本よりも前に出た。
「……気の狂ったような母親が、娘や、夫や……銃で撃った……そして、あなたは……自分の娘が泣きながらそのことを伝えた時に……さっき確かに笑った……なぜです?……良美さんは、何を止めて欲しくて……いや……誰を止めて欲しくて、僕等に頼んだんです? 教えて下さい。」
「良美に聞いて下さい。」
昌美は灰皿の端に触れながら冷静な口調で言った。
「私にも、私自身の生活があります。娘のこと全てに構ってあげられるわけではありません。」
俺は、この台詞で、身体中の力が抜けてしまいそうだった。
「そんなことじゃない。」
「先生は、なぜ聞かなかったんですか?」
「そんなことじゃない!人が死んでるんだ!」
もどかしい。生徒よりも、保護者の方が話は通じないのだ。
「あんたの知ってる人が、2人、もしかしたら3三人かもしれない。4人かも……良美さんだって撃たれるところだった。自分の娘がだ。なのに……」
昌美は灰皿を触ったままだった。表情は変わらない。俺は声を荒げずにはおれなかった。
「なのに何がうれしい?、誰が死んだのがうれしいんだ?」
……『誰が死んだ?』……誰? ……そうだ、それが……何かひっかかっている…
…ズボが、さっき川本に聞いた……聞いた……俺は谷岡に聞いた…
…『高木は、どうしてあっちに…』……ここPSに来たのだ? …
…平田時江を殺すため……なぜ?
……平田芳美を殺したから……平田芳美と高木は?
……『あんたたち親子は』と時江は言った。父と娘?……じゃない…
…母と娘……『ママの思い通り』……?
……あ……
「もういいの!」
川本が叫んだ。
「もういい……」
何がもういいのだ。
副担任が声を荒げ、娘が泣き叫んでも、昌美は表情を全く変えなかった。そして、黙っていた。当然のような顔で黙っていた。
おそらく彼女にはそれしか手がないのだ。
ズボと俺は共に怒りと驚きの表情で、川本の方はとまどいと悲しみに支配された表情で、やはり黙っていた。
俺達にもそれしか手はないのかもしれない。
30
長い沈黙を破ったのはズボだった。
「……良美さん、それじゃあ聞くけど、あなたはそれで、これからあのおかあさんと一緒に生きていけますか?」
川本は顔をこわばらせ、唇をかんでうつむいた。
この台詞は、冷静に構えていた昌美の表情にも変化を起こした。彼女は突然きつい目になり、ズボをにらみつけた。そして目と同じくらいきつい声で言った。
「……そんなこと、あなた達他人が……どうして気にするの!」
「その通り、」
俺はすかさず割って入った。声が恐いけど、とりあえずチャンスだ。ここで初めて昌美と会話がかみ合った。これは突っ込まなければいけない。相手の怒りの表現というは実は互いの理解のためのステップなのだ。
なぜわかるかって、生徒でいつも慣れている。
「でも、もう何も知らないわけにはいかなくなった。教えて下さい、」
俺は言葉を切った。次の台詞を言うべきかどうか、少し考えたが、やはり、止めることはできなかった。
「……14年前のことから、今回のことまで……」
殺されるかと思うくらいの物凄い形相が返ってきた。もし昌美が銃でも持っていたら、俺は後悔する間もなく射殺されていただろう。
「……どうして……」
銃は持っていなかったらしい。やはりああいうものは一家に1つまでだろう。その1つは今俺が持っている。だから、彼女から実際に返ってきたのは銃弾ではなくて、震えた声だった。
「……少しは調べましたから。」
俺は1つ息を吐いてから答えた……調べた?……ものは言いようだ。ベンツの革張りレカロシートに座ってたら教えてもらっただけだ。
「でも、何かがあったってことしか知りません。それ以上のことは、何も。」
正直だなあ、俺は。
「僕等が良美さんに頼まれたのは、『平田芳美を捜して』なんです。それは、実は、きっと『助けて』って意味だった……だから、何の役にも立ちませんでした……平田芳美は殺されました。
……それも、自分の母親に……」
「時江ならやりそうなことだわ……」
すぐに冷淡な声が返ってきた。
……あ、そうか……
昌美のこの冷淡な声を聞いて、俺は、ズボがさっき川本にした質問の重大さがやっとわかった。
そう、本当に『ママの思い通り』なら、可能性はある。
……でも、なぜ? ……
「渡辺と青山は今日はお休みですか?」
俺はカマをかけた。当たりか、ハズレか……
「それとも、店が終わってから昨日みたいに琥珀に行ったんですか? 僕はさっきまで琥珀にいたのに、会いませんでしたけど」
「……まさか……」
昌美は、はっきりと青ざめた。
半分だけ当たりだ……そうか……なんて間抜けなんだ、俺は。
作品名:Grass Street1990 MOTHERS 27-36 作家名:MINO