Grass Street'90 MOTHERS 10-18
「4人が琥珀の前に来たら、ドアが開いて、そしたら、あの女の子2人が突然その中に飛び込んだんや。石川がそのドアに向かって2言3言話して、1分も経たないうちにドアが閉まって、男2人はもと来た道を平然と帰って行った。それだけ。」
「ドアには誰がいたんや。」
「こっちに開くんや、何も見えんかった。」
俺も野暮な質問をしたものだ、脇役に向かって。
もちろん何を言ったかも聞いていないだろう。聞こえる距離にいてこいつが無事でいるわけがない。
「事務所へ帰ろう、やり直しや。お前の予想もきっと当たりやし。」
「なんかあったのか?」
「なにも……石川を『お父さん』って呼んだら返事をしかけたってだけや。谷岡のせいで何も聞けなかったけど。」
ズボは流し目を俺に向かって斜め下方に落とした。もしかしてこいつの目が少したれているのは、いつもこうやって下を見ているからかもしれない。
「昨日もそうやけど、お前、良く無事で生きておれるなあ。」
はっきり言って、昨日もこいつがいなければ全く無事なのである。
俺は無言で背を向け、メインロードを歩き始めた。ズボもすぐについてきたが、思った通り、徐々に遅れ始めた。岐山会館の横に出る頃には俺と15メーターくらいの差がついていた。待っててやることもない。いつものことだ。子供でもあるまいし、戻る場所は決まっているのだ。
それに、あいつが遅れて着く頃俺はやっと話を始められるはずだ。リーダーとおっしょはんがしぶしぶ楽器をしまい終わった頃にズボは到着するのだ、きっと。
人にはそれぞれ役目がある。
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凡人であれば、臭い靴箱(旧名:下駄箱)、ゴミ焼場、裏門、のあとには、生徒との待合せ場所としてはトイレくらいしか思いつかないだろう。
もし誰かがそうしても俺は別にどうこう言うつもりはない。凡人とはそういうものなのだ。
さて、俺は大してきれいでもない安物のソファに座っていた。後ろにはこれまた安物の教員用ロッカーが並んでいる。もしかしたら本校の秘密なのかもしれないが、実はこれら安物の教員用ロッカーの裏には、このロッカーで囲ったそれぞれ一畳ほどのスペースがある。汚いモップが一本と古新聞が隅に置かれたここが、なんと、教員用男女兼用更衣室なのである。
俺は、偉そうなことを言う教育評論家の皆さんに一度ここで着替えてみることをお薦めする。よせばいいのに臨時教育審議会などという『オチコボレ増加促進会議』にしゃしゃり出てくる経済人や、『文化人』という名称に尻尾をふるわけのわからん作家みたいな奴等にはなおさらだ。
実際、世の中でここほど虚しくなる場所を俺は知らない。
俺の前には、同じように汚い方の部類に80%以上入るソファがあり、その真中やや向かって右よりに川本が座っていた。
火曜日の午後5時半過ぎである。川本の後ろには座るとちょうど頭の高さくらいの書類用ロッカーがあり、その上には学校生協のチラシが積み上げられている。誰も整頓しようとしないこのチラシの向こうにどんよりと広がるのが職員室である。勤務時間後なので、用がない先生達はもう帰ってしまっているし、用があるのはたいてい部活動であるから、職員室に残っているのはいつものように教務部の4~5人である。『4~5人』としたのは俺も教務部であり、数に入れるかどうか悩むところだからだ。
ところで、このソファというのはちょっとしたお客さんや生徒との話に使ったり、時には空き時間に教師が居眠りをしたりする場所になっている。空き時間でなくともする場合もある。
最後の用途のためかは知らないが、そういうわけで教頭からは見えにくい位置に置いてある。
川本はなんとなく居心地が悪そうな感じで座っていた。俺もあんまり良くない。この安物ソファは座り心地が最悪であるし、それよりも、また川本に泣かれるのではないかと怖くて仕方ないのだ。
「経過報告だよ、依頼人さん。」
俺は授業では滅多に出したことのない気を遣った声で話した。
「まず、石川女短にはホステスの斡旋というような事実はない。それと、申し訳ないが平田芳美の行方はまだわからない。」
川本はうつむいていた。昨夜の石川と同じように……そして、唇を固く結んでいた。少し厚目の……言われてみれば……そう、似ていなくもない……
それにしても大したものだ。俺には川本の呼吸の音さえ聞こえてこなかった。
「質問がある、いいか。」
俺は返事を聞く様子も見せずに話を続けた。
「昨日夜中に、お前の家の前を通ったんやが、お前の家って、あそこの公民館のすぐ西やな。部屋が2階やったとしても、お前の家から見える位置に平田という家はなかった。
……それから、お前の、『よしみ』って名前、どうしてついた?」
川本は黙っていた。
俺は努めて無表情に続けた。
「俺の友達に『長谷部昭彦』って奴がいてな、」
しまった!あいつを『友達』なんて呼んでしまった。訂正は……まあいいか、他に誰かが聞いているわけでもない。川本の口さえしっかり塞いでおけばいい。
「そいつの祖父、じいちゃんの名前が『昭光』というんや。そいつの家は会社をやってるんやけど、会社を作ったのがそのじいちゃんで、それで、その名前にちなんでそいつを『昭彦』、弟が1人いるんやけど弟を『光彦』と名付けたそうや。」
川本はまだ黙っていた。顔も上げなかった。
俺は、仕方ないので右横の薄汚いコピー機を見ていた。だいたい職員室にある精密機械は壊れやすい。それに、いつも汚い。おそらくは、というか、確実にタバコのせいである。ここにも『味なしタバコ』軍団の害が出ている。どう考えても、ピースやホープやハイライトではこんなに数を吸えないのだ。JTの陰謀にはまっていることに早く気付かなければ……待てよ、これはもしかしてJTと、OA機器メーカーとの裏取引があるのではないか。マイルド何とかというようなわけのわからない『味なしタバコ』を売りまくり、それによって機器の故障を頻繁に起こさせ、さらに新製品を売り込むという……そうに違いない!
「……あの人に、会ったの?」
向きなおると、川本は顔を上げ、俺をじっと見ていた。どういうわけか俺が予想していたような、つまり二日前の石川のような凶暴な目ではなかった。他人に何かを感じさせるようなわざとらしいものではなかった。もっと深い目だった。そしてただ、悲しい目だった。
俺は突然、自分の回りのものが、今までみたいに気にならなくなった。JTとキャノンやリコーとの陰謀などバカバカしくなった。そんなもの、勝手にやらせておけばいい。陰謀でも協定でも策略でも。俺には川本のその目以外、他のことなどどうでもよくなってしまったのだ。
俺達の思うより、もっと重大な、何かが、ある。
川本は立ち上がった。俺は口を半開きにしたまま彼女を見つめた。何も言えなかった。何を言っても完全にズレていることがわかりきっていた。
「……先生……もう、これで、いいのかもしれない……でも……」
川本は感情を乱したりしなかった。淡々と、悲しい目のまま声を出していた。
作品名:Grass Street'90 MOTHERS 10-18 作家名:MINO