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鳴神の娘 第四章「星、堕(お)つる」

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『我は昔、この吉備の地で、戦火にまかれた一人の人の娘を救い、天へ取り上げて我が妻とした。……娘の名は、阿子(あこ)。その母は、阿曽女(あそめ)。--そして父は、吉備津彦』
『吉備津彦--大吉備津彦命!? ……では七百年前、伊佐芹彦の侵略から逃れた吉備津彦の姫が、あなたの妻に……!?』
 建加夜彦は呆然と呟いた。あまりにも、想像を絶する話だった。
『我と妻の間には、一子が誕生した。しかし、それは魂を宿さぬ蛭子であった。蛭子は長き間、魂無きまま眠っておったが、ある時冥府の司が我のところを訪ねて言った。「--救われぬ魂がある」と。我は答えた。「それでは我が子に魂無き者がおるゆえ、その中に入れるがよい」と』
『では……この赤子の宿した魂とは……?』
『誰よりも強く蘇りを望んだ者--吉備津彦である』
『そんな……』
 建加夜彦は、赤子を抱いたまま愕然と膝をついた。
 吉備の民全てが守護神と仰ぐ、古の英雄・吉備津彦。大和の侵略軍に対して戦った、吉備の象徴。その尊き御魂が、この小さな赤子の中に? --しかも、天津雷神の血を引いて?
『魂は、自らの血の裔に生まれ変わるもの。我は、我が子をその魂の最も望む場所へ還すことにした。--若き吉備の王よ、そなたに我が子を託す』
 語り終わると、煙は四散した。
 直後、雲間から光が差し始める。先刻までの曇天が嘘だったように、空はまた明るく輝き始めた。

「そんな……そんなことって……」
 建加夜彦の枕元で、斐比伎は呆然と呟いた。突然に聞かされた話は、何もかもが信じられなかった。
 --自分が武御雷神の子で? そして、吉備津彦の末裔で? --しかも、その吉備津彦本人の生まれ変わり?
「……真の出自を伏せるため、俺はお前に、自分を『水の巫女』だと思わせた。……だが、お前が雷の力を持っていたのは、水の巫の異端種だったからではない。お前が、雷神の子だったからだ。……しかも、武御雷神は、火の神の御子であられる。故に……斐比伎、お前は、誰よりも尊く濃い吉備の血と魂を継いだ、火の裔なのだ……」
 建加夜彦は言った。
「父様……それが……それが、本当のことなのね?」
「……俺が嘘を言ったことがあったか?」
「ないわ……」
 斐比伎は建加夜彦の手を握り締める。
 --何がなんなのか。どう理解すればいいのか。
 あまりにも急に色々なことを聞かされて、すぐには頭も心も整理できないけど。
 ただ、今は。
 この人の言うことを、信じよう。
 --それでいい。それだけでいい。
「……しかし、にわかには信じがたいですな、今のお話は」
 重臣の一人が声を上げた。
 それを契機に、幕内がざわめき始める。
 --その時、彼らの頭上に、一つの低い声が落ちてきた。
『……偽りではない』
『わ、若日子建命!』
 叫んだのは斐比伎ではなく、隅に控えた大巫女だった。
『……我がわかるか? 吉備の巫女よ』
 幕内に出現した若日子建は、大巫女を見下して言った。
「はい。あなたさまは、長い間我らに託宣を下された御方。大吉備津彦命の弟君であらせられます」
『……ほお。しばしば託宣を読み違え、先祖の直系を吉備の異端と決めつけたそなたでも、そのくらいはわかっておったか』
 若日子建は淡々と語る。大巫女は深く恥じ入り、ひたすら彼に向かって平伏した。
『吉備の者達よ、聞くがよい。我は吉備津彦の弟、若日子建である。我は長き間、兄に代わって遠くより吉備を守護してきた……何故なら』
 若日子建は、周囲を睥睨して言った。
『吉備津の社に、吉備津彦の魂はなかったからだ。兄の魂は長い間別の場所をさまよい続け--そして、ついに蘇った』
 若日子建は、視線の先で斐比伎を捕える。
 --そして、告げた。
『この娘は、間違いなく我が兄・吉備津彦の蘇りし御魂。--そなたらを導く、新たなる吉備の王である』
 託宣を聞いた大巫女が、感極まったように叫び声をあげる。それをきっかけとして、重臣達は次々に、若日子建と--斐比伎に対して平伏した。
「……斐比伎」
 床から半身を起こすと、建加夜彦は傍らの娘に呼びかけた。
「……俺はお前を養女として以来、妻問いもせず、子も作らなかった。--それは、いつの日か、お前だけにこれを渡すためだ」
 建加夜彦は首にかけていた紐をはずし、それを斐比伎に渡した。
「これは……」
 斐比伎は己の手の中にあるものを見つめる。
 それは、焔を象った、金の勾玉--吉備王の証だった。
「お前こそ……紛う事なき、吉備の『火継』。一族を背負え--起て、斐比伎!」
 斐比伎の肩を掴み、建加夜彦は激しい瞳で彼女を見据える。
 吸い付けられたように、斐比伎は建加夜彦の強い眼を見返た。
 --そして、迷いを捨てた声で言う。
「--わかりました、建加夜彦。私は--あなたを継ぎます」


 --深夜。建加夜彦が薬で眠った後、斐比伎は幕内を抜け出し、川岸へとやってきた。
 誰もいない川辺へ座り込む。--その途端、斐比伎の両目から涙が溢れ出た。
「……どうしたんじゃ、まったく。吉備の新たなる女首長(めおびと)になろうというもんが」
 斐比伎の肩に乗ったまま、少彦名が戸惑ったように言った。
「……だって。だって、このままじゃ、父様が死んでしまうかも知れない……」
 斐比伎は嗚咽しながら呟いた。
 彼女の正体を明かすために無理をしたのがたたったのか、あの後建加夜彦は更に体調を崩した。
 もはや、周りの者にはなす術もない。かろうじて、薬で痛みを和らげることが出来るくらいだ。
「……いくら大和から吉備を取り戻したって。女首長になったって。父様がいなきゃ、何の意味もない。私が護りたいのは、父様のいる吉備なのに……!」
「斐比伎……」
 少彦名は力なく呟いた。
「馬鹿だわ、私。磐城の皇子なんかに憧れたりして。わざわざ大和まで行って。……ずっと、ずっと父様の傍に居れば良かった」
 斐比伎の両目からぱたぱたと、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……どうして、こんなことになるまで気付かなかったんだろう。私にとって大事なのは父様で……私は、父様が好きだったの。あの人を想っていたのよ、ずっと」
 斐比伎は、悔しそうに唇を噛み締めた。自分自身の愚かさが、堪らなく腹立たしい。
「……斐比伎」
「……ねえ、少彦名。私が天津神の娘ならば、力はないの? 父様を救えるような力が、私には!」
 斐比伎は叫ぶ。少彦名は沈んだ面持ちで呟いた。
「……武御雷は軍神じゃ。癒しの力は持っておらぬ。その血に宿るのは、ただ破壊の力のみ。じゃが……」
 少彦名は俯いて口ごもり、しばらく考えた後に言った。
「--斐比伎。米粒と、玉器を持ってこい」
「……何のために?」
 斐比伎はきょとんとして聞き返した。
「いいから。早うせい」
 少彦名に急かされて、斐比伎は訳がわからぬまま、とにかく立ち上がった。
 涙をふいて陣幕に戻ると、指示された通りの物を持って戻る。
「……これでどうするの?」
 玉器を下に置いて、斐比伎は訪ねた。
「--うむ」
 呟き、少彦名は米粒を口に入れた。くちゃくちゃと噛み砕き、それを玉器の中に吐き出す。
「……口噛み酒を造るの?」
「そうじゃ」