鳴神の娘 第四章「星、堕(お)つる」
星川の叛乱に加夜王が援軍を送った事が発覚した直後、斐比伎は牢へ引き立てられた。
『あなたはもはや日嗣の妃ではない。ただの謀反人の娘だ』
斐比伎に向かい、磐城はそう言い放った。
……その時の、冷然とした瞳。あの眼を見ればわかる。
彼は斐比伎に対して、ひとかけらの愛情も抱いてはいない。ただ、都合よく利用できる人質として。そのためだけに、斐比伎を自分のもとへ置いたのだ。
残酷な現実は斐比伎の心に鋭い傷をつけたが、彼女はあえてそこから眼を背けた。
今、最も気にすべきなのは、そんなことではない。
斐比伎が一番心を痛めていたのは--父・建加夜彦の安否だった。兵を挙げたという、父。大王軍と戦っている建加夜彦は、いったいどうなっているのか。戦況の行方は--。
「父様……無事でいらっしゃるの……?」
牢の中で一人、斐比伎は膝を抱えて呟いた。
『……知りたいか……?』
その時突然、牢の中に低い声が響き渡った。
ほのかに光を放ちながら、半透明の青年の姿が浮かび上がる。
「あなたは……若日子建……!」
斐比伎は驚いて小声で叫んだ。
牢の中に突如出現したのは、磐座に封じられた神剣の守人である神霊・若日子建だったのである。
慌てて周囲を見回すと、先刻まで厳めしい顔で見張りをしていたはずの男達が、皆眠りこけていた。
『戦況は思わしくない。加夜軍は和泉の河口で足止めを食ったまま、大王軍に押されている。建加夜彦は敵の矢を受け、深手を追った』
「なんですって!?」
斐比伎は叫び、蒼白となった。
『……このままでは命が危ない』
「そんな……父様が……」
斐比伎は床に手をつき、力なく呟いた。
あまりの衝撃に、言葉も出てこない。
そんな斐比伎の様子を見下ろしながら、若日子建は言った。
『建加夜彦のもとへ行きたいか?』
「あたりまえよ!」
斐比伎は顔を上げて即答した。強い黒瞳が若日子建を射貫く。
『……では、我が手を取るがいい』
若日子建は、斐比伎に向かって左手を差し出した。
「……助けてくれるの?」
『そなたの望むところへ、連れ行くことはできる』
「どうして、って聞いたら、答えてくれるのかしら」
『我には我の理由があるが。そなたの問いは、この場においてさほど重要なものではあるまい』
「……そうね。一番大事なのは、今すぐ父様のもとへ行くことだわ。--わかった」
斐比伎は決然と言い、若日子建の手に己の手を重ねる。
--次の瞬間、彼女の姿は牢の中から消失した。
--和泉国。
涛速川の河口に張られた加夜軍の陣幕の中で、重症を負った建加夜彦は床に伏していた。
胸を射貫いた矢傷は相当の深手で、しかも急所をかすっている。薬も思うように効かず、軍に従っていた大巫女の祈祷もあまり功を奏さなかった。
幕内で建加夜彦を見守る重臣達の間に、沈鬱な空気が満ちる。重たい静寂の中、突如あるはずのない声が響いた。
「--父様!」
叫び声と共に、忽然と斐比伎が現れる。
「……姫っ!? どうしてここに--」
重臣達は驚愕し、内部は騒然となる。
「--ああもう、説明はあとよっ」
斐比伎は重臣達に構わず、まっすぐ建加夜彦の枕元へと駆け寄った。
「父様!? 斐比伎です。父様のもとへ戻ってきました。わかる? 眼を開けて!」
斐比伎は必死に、建加夜彦に向かって呼びかける。苦しげに喘いでいた建加夜彦は、しばらくしてうっすらと眼を開けた。
「おまえか……」
「そうよ、父様」
「まったくお前は、いつも突然に現れる……」
建加夜彦は斐比伎を見上げながら、弱々しく苦笑した。
「……初めてお前を拾ったときもそうだった」
「父様?」
「……お前を救いに行こうとして、この様だ。……斐比伎、どうやら、俺はもうあまりもたないらしい……」
「やめてよ父様!」
父の言葉を遮るように、斐比伎は叫んだ。 握った拳が震える。瞳から涙がこぼれ落ちた。
「--ねえ、どうしてこんなことになるの。みんな大和のせいなの!? 大和が悪いのね、そうでしょ!」
「……斐比伎」
建加夜彦は手を伸ばし、俯いて嗚咽する斐比伎の頭を撫でた。
「……いつか、言わねばと思っていた。初めてお前と逢った時の事を。何故、俺がお前を『吉備の姫』としたのか、その真実を。今を逃せば、もう語る時はあるまい。……お前達」
後方に控えた吉備の重臣たちを見渡し、建加夜彦は言った。
「……お前達もよく聞け。……これは、吉備の行く末全てに関わることだ……」
言って建加夜彦は目を閉じる。大きく息を吐き出すと、彼はゆっくりと語り始めた。
「……俺は今でも、鮮明に覚えている。……あの日……あの、皐月の晦に起こった、神(あや)しきことを……」
……十六年前の、皐月の晦。
数人の供人を連れて狩りに出かけた建加夜彦は、夢中になって獲物を追ううち、一人で旭川の川原に迷い出た。
帰り道を探してさまよう彼の耳に、不意に赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。建加夜彦は慌てて周囲を見回す。
『あれは……っ』
建加夜彦は急いで川の中へ踏み入った。
葦で編んだ小舟に入れられた赤ん坊が、泣きながら川を流れてくる。建加夜彦は赤ん坊を救い出し、川岸へ戻った。
『よしよし、もう心配ないぞ』
建加夜彦は赤ん坊をあやす。子供は女の子で、よく見るととても愛らしかった。
『……それにしても、一体どこの親だ。子供を川へ捨てるなんて……』
赤子を抱いたまま、建加夜彦はふと思案にくれた。拾ったはいいが、一体この赤子をどうすればいいのだろう。
『……とりあえず、このままでいるわけにはいかないな』
建加夜彦はいったん御館へ戻ることにした。
どうも、天候がおかしい。
さっきまで快晴だったというのに、急に空に暗雲が垂れ込めてきた。雨もぽつぽつ降りだしている。季節外れの嵐がきそうな気配であった。
建加夜彦は、馬のもとへ急ぐ。
--その時、突如天空に稲光が走った。
『うわっ……』
建加夜彦は思わず顔を背けた。轟音と共に、激しい雷が地上へ落下する。落雷を受けた川原は焼け焦げ、煙を上げていた。
見つめる建加夜彦の前で、煙がおかしな変化を始めた。まるで意志を持っているかのように動き回り--そして、一つの人影をとる。
『……我が娘を拾いしは、そなたか』
建加夜彦の頭の中に声が響く。
『--あなたは?』
建加夜彦は、声の主と思しき煙の人影に向かって問いかけた。
『--我は、高天原に坐す天津軍神・武御雷神(たけみかづちのかみ)なり』
『武御雷神……!? 雷神の……?』
建加夜彦は驚き、恐れ戦いた。
伊邪那岐神が火之迦具土神を斬った時に飛び散った血から生まれたという武御雷神は、神代の頃国津神と戦い、豊葦原の国譲りを成功させた、高天原の猛き軍神である。
『我が娘とおっしゃったのは……この赤子でございますか?』
建加夜彦は、人影に向かって腕に抱いた赤子を掲げた。
『いかにも。これは、我が蛭子なり。--なれど、そなたらの待ち望んだ者である』
『……どういう意味でございますか?』
理解できぬまま、建加夜彦は神に問うた。
『……若き吉備の王よ』
武御雷神は、厳かな声で建加夜彦に語りかけた。
作品名:鳴神の娘 第四章「星、堕(お)つる」 作家名:さくら