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鳴神の娘 第四章「星、堕(お)つる」

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 伊佐芹彦は死の直前まで、繰り返し繰り返し吉備津彦の声と眼を思い出した。忘れたいのに、ほんの一瞬といえど忘れることができない。甦る声は、その度ごとに彼の身の内に深い恐怖を刻みこんだ。伊佐芹彦は、そんな自分を激しく嫌悪し続けた。

(……そして、生まれ変わってまで忘れられない)
 「磐城」は、美しい顔を歪めて奥歯を噛み締めた。
 七百年たって転生してみれば、昔滅ぼしたはずの吉備は見事に復興を果たし、大和に並ぶ強国となっている。
 そして再び「大和の皇子」として宮殿に生まれた自分は、物心着いたときから「伊佐芹彦」としての記憶に縛られ、未だ吉備津彦の呪言に苦しめられている。--しかも、滑稽なことに、今世では吉備の血を引いているのだ。この自分が!!
 古い記憶が強烈すぎるあまり、磐城は時折、自分がいったい誰なのかわからなくなることがあった。
 「磐城」なのか、「伊佐芹彦」なのか--。
 確かなのは、ただ一つ。自分が「大和の皇子」であり……全ての負の原因が「吉備」にあるということだ。
『--吉備のためです』
 不意に、磐城の頭の中に、そう言い切った時の斐比伎の姿が浮かんできた。
 あの、澄んだ声。あの迷いのない瞳--そう、彼女はよく似ているではないか。吉備の血を引いているわけでもないのに。あの、揺るがぬ自信を持っていた男に。
『よい友になれそうだ』
 まだ伊佐芹彦を信じていた頃、吉備津彦は屈託なく笑ってそう言った。
 ……そうだ。「友」に、なりたかったのだ。なれるかも知れないと思った、ただ一人の男だった。
(見ているがいい、吉備津彦。今度こそ貴様の故郷を、二度と立ち上がれぬほどに殲滅してみせる)
 磐城は刀身を鞘に納めながら誓った。恐らく、それが唯一、この自分があの呪いから解放される道なのだ。

「……では、確かにお預かりいたします」
 司に告げると、磐城はその場を辞した。
 伊佐芹彦の死後、天叢雲剣は長く伊勢の社に納められていた。
 忍代別の大王の御代、伊勢の斎宮だった倭姫は、討伐を行なう甥・小碓命の為に封印を解き、彼に神剣を与えた。
 小碓命は尾張の地で神剣を妻・美夜受姫(みやずひめ)に預けたが、彼女のもとへは戻らぬまま死亡した。
 神剣はその後、熱田の社に納められ、姫の一族が代々祀ってきたのだった。
 --そして、その封印を、今再び磐城が解いた。来たるべき、吉備との戦いのために。
 供人のもとへ戻った磐城は、彼らの様子が尋常でないのに気がついた。
「……どうした? 何かあったのか?」
「た、大変でございます皇子! 今、宮殿より急使が参りまして……」
 大伴は血相を変えて磐城に告げた。
「星川の皇子が大王を殺し奉り、大蔵を占拠したとのことです。しかも、援軍として、加夜王が船団を率いて海上をやってきたと……」
「--そうか。……ふ……ふふ……はははっ」
 報告を聞くと、磐城は大声で笑い出した。
「み、皇子さま?」
 傍らに立った大伴は呆然とする。
 一体、この報告の何がおかしいのか--到底、笑っていられるような事態ではないだろう。--いや、それ以前に、磐城がこんなふうに人前で笑うのを見るのは、初めてのことだった。
「……まったく、思った通りに事が進んでくれる。丁度、宮殿内の吉備派の大掃除がしたかったところだ。ついでに加夜もついてくるとなれば、実に好都合」
 楽しそうに言うと、磐城は自分の馬に飛び乗った。馬上から、まだ呆然としている部下達に呼びかける。
「さあ、大和へ戻るぞ! 急いでな!」
 言うなり、磐城は馬を走らせる。
 呆気にとられていた部下達は、慌ててそれぞれの馬へ乗ると、急いで先に行った皇子の後を追った。



 満開となった桜の老木に、炎が燃え移る。激しい熱風に煽られて、薄紅色の花弁が一斉に舞い散った。
 非現実的なまでに美しいその光景を、星川は館内に立ち尽くして見つめていた。
(桜が……燃える。庭も。蔵も。人も。……何もかもが、炎に取り巻かれていく)
 足もとまで届こうとする焔の渦の中に立って、星川は一人、逃げようともしなかった。
 星川達の挙兵が成功したのは、大王を殺害し、この大蔵を占拠したところまでだった。
 報告を聞いて大和へ急ぎ戻った磐城はすぐに指揮をとり、大伴や東漢束直に命じて、大蔵を包囲させた。
 外門を固く閉ざしかため、中に立てこもる星川達に対し、磐城軍は一斉に火矢を放った。炎はあっというまに大蔵の内外に燃え広がり、星川達を窮地に追いつめた。
 --もともと、星川と磐城では、その背後に持つ勢力が違いすぎるのである。星川についた僅かな手勢では、大和軍そのものをも動かす磐城に、太刀打ちできるはずもなかった。
 援軍として頼みにしていた加夜軍は、星川の救出に間に合わなかった。起死回生をかけて海上をやってきた加夜の船団は、和泉で大王軍の足止めを食らい、激しく交戦中である。
「……ここまでだな」
 星川は、諦めたように呟いた。
 大蔵の内にも外にも、もはや彼を助けるものは誰もない。僅かな味方は、皆星川を守ろうとして戦い、そして死んでいった。
「--母上」
 星川は、己の足下を見た。板床の上には、火矢を受けて命を落とした稚媛が、うつ伏せに転がっている。
「兄上。あなたという人は、己の母や弟を、こんなにも冷酷に討ち滅ぼせるのですね」
 言って、星川は激しくむせた。--煙が充満している。息が出来ない。
 視界に入るのは、もはや荒れ狂う炎ばかり。
 あちこちで柱や屋根が燃えていた。ほどなく、この館自体も崩れ落ちるだろう。
 --父は死んだ。母も死んだ。そして今、兄は自分を殺そうとしている。
 もう、誰もいない。自分には最早何も……。
(斐比伎姫……あなたは、どうなるのだろう)
 涙でかすむ星川の眼に、炎の中を舞い狂う桜の花弁が映った。
 --こんな凄惨な、人々の終焉の場にあって。桜はただ、その哀しいまでに美しい最期の姿を無言でさらしている。

  花妙し 桜の愛で
  こと愛でば 早くは愛でず
  我が愛づる子ら

 星川は、古の大王が謡った歌を思い出した。

  ……花の美しい、桜の愛しきこと。
    同じ愛するなら、早くから愛すればよかったのに、そうはしなかった。
    我が愛しき姫も、また。

 古の大王は、愛しい衣通姫をただ一夜しか愛する事ができなかった。それを惜しみ、なお姫の美しさを愛でてこの歌を詠んだという。
(一夜どころか……ただ一度、言葉を交わすことしか出来なかった。もっと早くあなたに逢いたかった。もっと早く出逢って、あなたを愛すことができていたならば……)
 星川は、桜を見つめながらそう願う。……もう、叶わぬ夢でしかないけれども。
 後の世の人々は、星川を、大王位を狙って謀反を起こした、心悪しく愚かな皇子と語るだろう。
 誰も知るまい--星川の、本当の願いを。
 ……全ては、ただ一度出会った姫のためだけだったなど。

「僕は……何も守れなかったし、誰も救えなかったんだ」
 炎の中で、星川は閉じた瞳から涙を落とす。
 --この日、謀反人・星川皇子は大王軍の手によって焼死させられた。