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リンドウノミチヤ
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KYRIE Ⅰ  ~儚く美しい聖なる時代~

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プロローグ ~系譜~



 稀代の名ピアニスト桐永天音の父親は北欧の由緒ある家の次男だった。

 しかし彼は素行の悪さが原因で勘当され生きている内に生家に戻ることは許されなかった。気紛れな彼が唯一選んだのがチェリストとしての道だった。日本の交響楽団に招かれ一時期来日していた時、同じ楽団員のやはりチェリストだった桐永狩野と出会い一子を儲けたが、その子、天音が5歳になった頃男は出奔、以後父と息子は会う事はなかった。天音が再びその消息を聞いたのは数十年後、父がロンドンで死去した後である。

 天音は父方の莫大な土地と企業その他諸々の遺産を相続する事になったが彼にそれを管理する意思はなく、娘の史緒音が全て引き受ける事となった。

  十九歳の史緒音は中性的な肢体とこの世ならざる美貌を持っており、父親に似て何処か世捨て人のごとき雰囲気を漂わせていた。史緒音を見た者殆どはその天使を思わせる外見に魅入られたが、彼女の精神も又男女の境界が極めて曖昧な処にあった。それを証明するかのように彼女の身体には未だに初潮すら訪れてもいなかった。

 しかし娘と父親には決定的な違いがあった。著名なピアニストの父親は音楽以外の全ての事柄に薄情と言って良いほど無関心だったが、彼女は透徹した賢さでもって父親と、そして己を取り巻く世界を冷酷に眺め、かつ掌中に収めようとしていた。他人の意のままに動く事は如何なる状況下でも彼女の本意ではなく、いざとなれば手段を選ばず相手を陥れるような酷薄さが彼女にはあったのだ。
更にそれを裏付けるような恐るべき経緯があった。娘が十三歳の頃殺人を犯し、その上自分の父親をも殺そうとした為その後数年間収監されていたという事実だった。



*******


 史緒音の曽祖父は既に100歳近い老人だったが未だ頭脳明晰だった。

 彼の先祖は数百年前より主君殺し遡っては王族の権力争いの果ての暗殺に深く関わっていた一族だった。老人は初めて会った曾孫をひと目で気に入り、孫の天音よりも彼女こそが一族の暗い血を濃くひいていると見抜いた。一族が代々営みを続けてきた暗く陰鬱な館の一室でベッドに枯れ木の様な体を横たえ、彼は、ミューズの寵愛を一身に受けているという優男風の孫を一瞥し、そして後ろで我関せずと言った風に自分達を眺めている曾孫に声をかけた。

「お前はピアニストにはならなかったのかね」

「私には才能がありませんから」

 娘はいきなり声をかけられた事に少し驚いた様だったが、部屋に入って来た時と同じく丁寧ではあるがつまらなそうに答えた。親子ともすらりと丈高い姿形はそっくりだが透けるように明るい琥珀色の髪と目を持つ父親と違い娘はやや灰色ががったような亜麻色の髪と薄茶色の目をしており声音は辛辣な気配を漂わせていた。

「父親はそう望まんのか」

「彼の生命のひとつを絶った張本人にそれを望むと?」

 娘は静かに言ってのけた。数年前、彼女がピアニストである父親の生命線に切りつけ再起不能に至らしめた事を指しているのだ。彼等の会話を聞いていた周囲の人間達は思わず元ピアニストを見た。優男は自らの内心を露にする風でもなく、悠然としている。
 老人は興味深そうに父娘を見たが、話題を切り替え、娘に株式に関する基本的な質問を2、3試みた。娘は響くように彼の望む答えを返した。

「お前にはかなりの知識があるようだが、何処でそれを勉強した?」

「塀の向こう側で」

 娘は平然と答えた。周りの人間は今度こそ唖然とし、老人は枯れ木の様な体をきしませこの日初めて愉快そうな笑い声をたてた。

 曾孫と曽祖父が会ったのはこの時一度のみだったが、二人の間に精神的な契約が結ばれた。

 曽祖父は、犯罪暦含めハンデがある曾孫の補佐役として彼女に遠縁の公爵を与えるよう命じた。実は公爵は若い頃、史緒音の父親である天音と友人という範疇を超えた間柄でもあったのだが、父娘ともその事に頓着するそぶりすら見せなかった。そして、史緒音が心の奥底で未だに父親の天音との繋がりを求めていたのかどうかを知りうる者はいなかった。

 彼女は怜悧で冷徹な企業家として暗躍する事になった。