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(続)湯西川にて 16~20

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(続)湯西川にて (19)女将からのご祝儀


 清子が起き出したのは、午前2時の少し前でした。
寝息を立てている俊彦へ蒲団をかけ直すと、物音を立てないようにして、
静かに隣室へ向かいます。


 「もう、起きるのかい?」その背後から、俊彦の声が追いかけてきました。

 「なんだ。タヌキ寝入りなの、あなたは・・・・まだ、2時の少し前です。
 もう少ししたら、後から起きてくださいな。
 湯西川の芸者は、殿方には決して素顔を見せません」


 「あの頃は、素顔のままだったような気もするけど」


 「意地悪。あげ足などは取らないで。
 二十歳のあの頃なら、いくらでも素顔を見せられました。
 いまは、もう頼まれても無理な話です。
 女の旬なんて、すこぶるに・・・・きわめて短いのよ」


 「へぇ・・・・君の女の旬は、もう終わったの。
 俺にはそうは見えないが」


 「もう、25になります。
 まだ25歳だというべきかしら・・・・
 なんという会話をしているのかしら、まだ夜明け前だというのに私たち。
 お化粧が済みましたら、目ざましにお茶をいれますから、
 あなたは、それを合図に起きてください。
 それから・・・・」


 「それから?、・・・・まだ他にも何かあるのかい?」

 俊彦が、勢いよく蒲団から上半身を起こします
襖を開けかけた手を停め、隣室からのかすかな逆光の中で、
「わざわざ(子供のように)起きなくても」と清子が、苦笑を見せています。


 「あなたのためにと、伴久ホテルの女将から浴衣を預かってまいりました。
 あなたへの、退院祝いのお品です。
 ですが、その足の様子では、まだ着こなすのには無理があるようです。
 今日は無理をなさらず、お洋服のままの方がいいでしょう。
 それだけのことです。
 身支度などをいたしますので、どうぞ聞き流してくださいな。
 あなたはまだ、お布団で休んでいてください」


 「いや、起きる。浴衣に興味が有る」


 「またまた、無茶を言い出して・・・・
 その様子では洋服でさえ歩くのが大変だと言うのに、さらに浴衣では、
 しんどいものがあるでしょう。
 女性の場合は着崩れたりすると、これはもう見苦しくて
 大変な事になりますが、男性の場合は、あえて『着崩す』という、
 着こなし方もあるようです。
 はいはい、もう解りました。
 それではお蒲団から起きてくださいな。
 あきらめましたので、こちらのお部屋で私の素顔も、
 浴衣も、ともにご披露をいたします」
 
 部屋の明かりをともした清子が、大きなバッグを引き寄せます。


 「浴衣。帯。肌着と草履。
 はい。すべてのひと揃いを、あなたのためにと預かってまいりました。
 3年前にあなたが湯西川を去る時に、新しい板場を紹介できずに、
 お役に立てなかったからと、お詫びの意味も含めて調達をされた
 退院祝いのお品だそうです。
 せっかくの機会ですからと、私にもと、揃いの浴衣を
 見繕っていただきました。
 今回の旅で、着る機会があるかどうかはわかりませんが、
 一応、念のためにそちらも持参してまいりました。
 どちらも、本場の結城紬です」


 結城紬は茨城県に伝わる伝統工芸品で、「真綿紬」と呼ばれる
高級織物のことです。
本場結城紬と呼ばれる最高級品は、その全ての工程が手作業によって
まかなわれているために、近年になってから、国の
重要無形文化財に指定をされています。
柔らかいうえに丈夫さを誇る結城紬の生地は、
着るほどに体にしっくりと馴染むと言われています。

 何度も洗い張りをして水をくぐらせることにより、
生地はさらに軽く柔らかい本来の結城紬の風合いに進化すると言われています
寝巻として着て、単衣にして着て、最後に袷(あわせ)にすると
良いと言われている結城紬は、あくまでも普段着として長く愛されてきた、
軽くて暖かく、かつ丈夫さを誇る日常用の着物です。



 「しかし・・・・あまりにも高価すぎるだろう。俺には」


 「あら、そうなの?。
 これがあなたにふさわしくないと言うのであれば、
 このまま湯西川へ持ち帰ります。
 女将が、結城紬のお揃いで、二人分を奮発してくれたのに、
 値段に負けて、高価なものは着られないというのであれば、
 是非もありません。
 でもね、これにはもうひとつ、小さな『おまけ』が付いているのよ。
 折角の機会ですからと、貴方と同じ生地を使って子供用の浴衣まで
 仕立てていただきました。
 こちらは女将ならではの、厚意だそうです。
 いつの日か、結城紬の三つそろった浴衣などを着る機会が
 有るといいですねと、いつものように、
 伴久ホテルの女将は笑っておりました」


 「子供用の浴衣まで準備してある?・・・・どういう意味だ、子供用とは。
 いったい何が起こっているんだい、湯西川では」


 「何事も一切がありません。
 貴方が着てくれないというのであれば、
 そのうちに私が、別の良き男性などを探して、
 着てもらうことにいたします。
 それから・・・・芸者といえども、私も適齢期を迎えた一人の女です。
 子供の一人や二人を産んでだところで、別に不思議なことはありません。
 あなたの方に、子供が先に生まれたら、この子供用の浴衣は
 お祝いとしてそちらへ。
 またもしも、私のほうに子供が生まれるようなことがあれば、
 これは清子へと、そのように配慮をしながら、
 女将が将来のために準備をしてくれたものです。
 結城紬は、長い年月を耐えうるために、
 持って生まれた強さを秘めているそうです。
 また、きわめて優れた特性を、いくつも併せ持っている着物だそうです。
 これから先の長い人生を見据えたうえで、女将が、
 心をこめて、プレゼントをしてくれたものと私なりには
 受け止めております。
 あなたが千葉でこれを着ていてくれるなら、私は、
 湯西川でこちらを着たいと思います。
 そのうちに縁などが有りまして、もしも、どちらかで子供が生まれたら、
 その子に、これを着せてあげればいいじゃありませんか。
 いいじゃないですか。この世には、そんな風に
 3つ揃いの浴衣が存在をしても。
 これもまた、なにかの定めで運命でしょう。
 さて。・・・・いかがなさいますか。
 女将からの、すこしばかり意味深なる贈り物ですが、
 そろそろ覚悟を決めて、運命に袖を通したらいかがです?」