鳴神の娘 第三章「吉備の反乱」
建加夜彦の制止を振り切り、留玉が一同を代表して斐比伎に事の次第を説明した。
「……と、いうわけですじゃ」
留玉は手短に話を終えた。その間、斐比伎は真剣な面持ちで老人の話に聞き入っていた。
「……そう。そんな事になってたなんて……」
先刻までの明るい表情とは一変し、斐比伎は沈鬱な様子で溜め息をついた。
自分が呑気に山で修業している間に、吉備がそんな危機を迎えていたとは。--しかも、この局面の行く末は、自分の肩にかけられているのである。
(……どうしよう。私は、どうすればいいんだろう)
吉備の姫として、加夜王の娘として。
一体自分は、どのように選択すればよいのか?
「……斐比伎」
考え込む娘に、建加夜彦が声をかけた。
「……父様。父様の、ご意見は?」
「お前の望むようにしなさい。どんな答えであろうと、俺は全力をもってお前を支える」
「--王!」
「黙れ」
非難の声をあげかけた長老は、建加夜彦の鋭い一瞥を受け、すぐに黙り込んだ。
「……私。私は……」
斐比伎は目を閉じ、僅かな時間でいろいろなことを考えた。
吉備の事。加夜の事。……優しかった父。「姫」である自分。--そして、大和の皇子。
(磐城の、皇子さま)
斐比伎の眼裏に、一度だけ出会った皇子の桜花のような姿が浮かんだ。
--あの、儚くも、麗しい人。
印象的で、忘れられない大和の皇子。あの皇子の、妃となる。この自分が……。
(あの方が、私を望まれたのかな……)
考えると、心の底に何か痛いような感覚が走った。吉備を去る悲しみとは、また違う。けれど、単純な喜びでもない。
形容しがたい、この気持ち。この感覚を、なんと呼べばいい?
「--父様。使者の方へのお返事は、いつまでにしなくてはならないの?」
眼を開けて、斐比伎は言った。
「……明日だ」
「そう」
斐比伎は父を見上げて、晴れやかに笑った。
「では、このように申し上げて。--斐比伎は、大和へ参りますと」
斐比伎は迷いのない口調で告げた。
「……斐比伎」
「大丈夫よ、父様。私は望んで大和へ行くの。……これは、私の意志なの」
斐比伎は真摯に父を見つめる。その清冽な瞳に、ためらいはなかった。
「--わかった。だが、斐比伎、覚えておくがいい。何処へ行こうと、お前は俺の娘だ。俺はいつでもお前を思い、お前の力になる。……忘れないでくれ」
建加夜彦は、言いながら斐比伎の黒々とした髪を撫でた。
その力強くて、優しい手。幼い頃から、幾度こうやって慰められたろう。
大好きだった、父。もしかしたら、二度とこうして近くで甘えることは出来ないかも知れないけれど……。
「……ええ、父様。忘れない。絶対に、忘れないわ」
滲む涙をごまかすように、無理に晴れ晴れとした笑顔を作って、斐比伎は明るく呟いた。
--弥生半ば。慌ただしくも華々しく、斐比伎の大和入りは行なわれた。
仮にも、日継の妃としての大和入りである。支度は、吉備の威信をかけて豪勢なものに整えられた。
周りは大慌てだったが、斐比伎自身のすることはあまりなかった。美しく飾りたてられた彼女が気をつけていた事は、ただ二つだけだった。
一つは、人に気付かれぬよう、いつも少彦名を襟元に隠しておく事。もう一つは、髪飾りのように細工した布都御魂剣の柄を、いつも髪にさしておくこと。
……斐比伎が注意したのはこのくらいだった。後は、周囲の者達が勝手に手配していく。
初めての旅の時は、その旅程を随分長いと感じたものだったが、二度目ともなると、時は瞬くように過ぎていった。
宮殿に入った斐比伎は、妃の坐す場所として奥宮の一棟を与えられ、そこに落ち着いた。
正式な披露目の宴は、しばらく先となる。斐比伎はとりあえず自分の室でくつろいでいたが、やがて彼女のもとに宮人がやってきて、磐城の皇子の来訪を告げた。
「皇子さまが?」
婚礼用の衣装を眺めていた斐比伎は、慌てて居住まいを正した。先触れの後に、磐城の皇子が現れる。
斐比伎の前に座った磐城は、彼女に向かって艶やかに微笑んだ。
「お久ぶりですね。斐比伎姫」
「はい、皇子さま」
斐比伎は畏まって言った。そんな彼女を見て、磐城はおかしそうに言う。
「どうなされた。今日は随分とおとなしいですね。初めて逢った時は、あのようにお元気だったのに」
「あ、いえ……一応、妃として参った身ですので」
斐比伎は恥じらいながら言った。
「そのように畏まらなくてもよいのですよ。宮殿は、恐ろしいところではない。あなたも、すぐに慣れてくださるはずだ」
磐城は穏やかな口調で言った。
「……それにしても、よく来て下された。懐かしい故郷を離れるのは、さぞお寂しかったでしょう」
「--いえ、そのようなことは。……吉備のため……吉備と大和の、ためですから」
斐比伎は磐城を見つめて言った。
大和の皇子は、初めて逢った時と変わらぬ麗しさで斐比伎の前に在る。
(あなたに……もう一度お逢いしたかったのです……)
斐比伎は心の中で呟いた。もしかしたら、それこそが己の本心だったのかも知れない。
この皇子の姿を眼にしているだけで、心に沁み入るような痛みが満ちてくる。
--今まで、ぼんやりとした霧のようだった己の感情。それが、彼を眼の前にしていると、強く意識されてくる。
これからは、この人の傍らにあり、彼の声を聞いて過ごすのだ。死ぬまでずっと。父ではなく--彼の。……建加夜彦では、なく?
(--何? 今の考え……)
ふと斐比伎は混乱する。一瞬の心の動きが、自分自身よく理解できなかった。
「……そうですか。吉備と大和のために……」
磐城は呟き、口元を緩めた。切れ長の黒瞳に謎めいた光が走る。
「皇子さま?」
「--姫。私たちが、両国の掛け橋となれるとよいですね」
磐城は鮮やかに笑った。--その笑顔は、とても優しそうに見えた。
「はい、皇子さま。そのように努めたいと思います」
斐比伎の言葉に軽くうなずき、磐城は立ち上がった。
「では、姫。宴までまだ数日ありますが、緊張なさらず、くつろいでお過ごしください。……あなたは、ありのままでおられるのが、一番いい」
そう言い置くと、磐城は退出していった。
皇子が去った後、斐比伎は適当に人払いし、はあ、と大きく溜め息ついた。
「……なんか、緊張しちゃった」
「--斐比伎」
隠れていた少彦名が襟の間から顔を出した。
「斐比伎は、あやつを好いておるのか?」
「……なによ、それ。突然ね」
「恥じ入ることはない。わしは大人じゃ。色恋の話もできる」
少彦名は胸を張る。斐比伎は呆れたように彼を一瞥すると、言った。
「……そうね、好きっていうか……皇子さまを見てると、何だかいつも特別な気持ちになるの。懐かしくて、悲しいみたいな……」
「……昔から、知っていたような?」
「--ああ。そうよ、そんな感じだわ。心の奥が痛くなって……眼が離せないような、特別な絆みたいなものを感じるの」
「絆、のう」
少彦名は呟いた。
「まあね。……やっぱり、こういうのを『好き』って言うのかも知れないわ。でも、いい事じゃない? 私はあの方の妃になるんだから」
「……妃、か……」
作品名:鳴神の娘 第三章「吉備の反乱」 作家名:さくら