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鳴神の娘 第二章「大和の皇子」

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 星川に教えられた通り進んできた斐比伎は、だんだんと、自分が歩いてきた道を思い出していた。この閑散とした小路を抜ければ、人通りの多かった元の通りに戻れる。
(今夜の宴には、何を着ようかな。思いっきり綺麗にしないとね。ええと、持ってきた中で、一番いい装束は……)
 --歩を進めながら、浮き浮きと考え込んでいた時。
 突然、斐比伎は首筋に激しい衝撃を感じた。
「……っ!?」
 何が起こったのか、斐比伎にはよく分からなかった。
 足の力が抜け、身体が傾ぐ。
(殴られた……!?)
 首に感じた痛みから、ようやくそれだけを認知した途端。
 --目の前が真暗になる。
「……っ……」
 言葉にならない、呻き声を残して。
 気を失った斐比伎は、そのまま地面に崩れ落ちた。
 

 大和の都に、陽が沈む。
 「日継」の皇子を祝う宴の刻限が近づいていた。宴が催される大王の宮殿の広間には、各地から集まった王や王子、姫達が群れ集い、華やぎを増している。
 だが、客席の筆頭に座るべき吉備加夜族の王--建加夜彦は、未だ自分たちに与えられた棟の一室にいた。
「……どういうことだ。何故、斐比伎がまだ戻ってこない」
 怒りを押し殺した声で、建加夜彦は眼前に平伏する乳母を詰問した。
「申し訳ございませぬ。我ら、途中で姫さまを見失いまして、必死に皆で探したのですが……」
 斐比伎の乳母・小弓はひたすら畏まりながら、建加夜彦に詫を述べた。
 王族に仕えて長い小弓は知っている。普段は温厚な建加夜彦だが、本気で起これば悪鬼よりも恐ろしい。しかも、彼は優秀な「王」であるがゆえに、部下の手落ちには厳然とした処罰を下すのだ。
「お許し下さいませ、建加夜彦さま。どうか……」
 必死に懇願する乳母を一瞥し、建加夜彦は厳しい声で言った。
「……もうよい。とりあえずは下がれ」
「は、はいっ……」
 悲鳴のような声で返答し、小弓は転がるように室から退出した。
 一人きりとなった室の中で、立ち尽くしたまま建加夜彦は腕を組む。
(……まったく、あの婆などは何も分かっていない)
 建加夜彦は苛々と舌打ちした。
 彼は、「斐比伎が約束の時間までに戻ってこなかったから」怒っているわけではない。
 わがままではあるが、斐比伎は賢い娘だ。
 特に、父と交わした約束は、絶対に破ることはない。--それなのに、言いつけた刻限までに戻ってこなかった。
 それは即ち、彼女が「自分の意志で戻れない状態にある」事を意味する。
「何があったというのだ、斐比伎……」
 王として--そして父として、建加夜彦は斐比伎の身を案じた。
 その時である。
『王……』
 薄暗い室の中に、風のように微かな声が響いた。
「……刺方(さしかた)、か」
 建加夜彦は低い声で言った。
『はい、王。ただいま戻りました』
 響くのは、ただ声のみである。主の姿は、どこにもない。だが、建加夜彦は慣れた様子で声に向かって問いかけた。
「わかったか?」
『はい、王。どうやら、斐比伎姫は何者かに連れ去られたようでございます』
「なんだと!?」
 聞いた途端、建加夜彦の双眸に剣呑な光が走った。       
『姫の警護についていた忍族(しのがら)が、二人とも倒されておりました。回復した彼らの話によれば、兵士らしき男が姫を連れ去ったとの事で』
「……なんということだっ!」
 怒りも露に、建加夜彦は叫んだ。
 小弓を叱責してはいたものの、建加夜彦は始めから乳母や従者など、当てにしてはいなかった。
 吉備王は、昔より「忍族」と呼ばれる闇の兵を持っている。彼らは決して人前に姿を現すことなく、王に対し忠実に服従し、その使命を全うする。
 忍族の任務は、他国への斥候、要人の暗殺、王族の警備など、表に出てはならぬものばかりである。陰の戦闘集団である彼らは、独自の掟に従って行動しており、その全貌をつかんでいるのは王のみであった。
 斐比伎自身は露知らぬ事であったが、建加夜彦は常に、彼女に数人の忍族をつけていた。斐比伎は一人で出かけたと思っていても、その実、いつも忍族によって護られていたのである。
「忍族を倒すほどの手練れとなれば、ただの身代の品目当てのごろつきではあるまい。斐比伎を吉備の姫と知ってのことか……」
 建加夜彦は厳しい顔つきで呟いた。
 大和領内で、吉備の姫をさらう。
(どこの国の者だ。何の目的で……)
 可能性は無数にあった。吉備を狙っている敵国は豊葦原中に存在したし、「姫」である斐比伎の存在は、どのようにも利用できる。
 しかも、斐比伎は巫女姫である。もしも何者かがそれを嗅ぎつけたのだとすれば、その点においても、彼女は充分に価値があった。
(出雲か? ……それとも、大和……)
 目を閉じて必死に考えを巡らしていた建加夜彦は、「今一つの可能性」に気づき、はっと双眸を見開いた。
(まさか……『あの事』を知っている者か?)
 そんな者が、この自分以外にもいるというのか。もし誰かが、『その目的』で斐比伎を連れ去ったのだとすれば……吉備は、とんでもないことになる。
『王? いかがなさいました?』
 黙したままの建加夜彦を訝しみ、刺方が声をかけた。
「……刺方」
 建加夜彦は、忍族の長の名を読んだ。その声には、尋常ではない響きが滲む。
「何としても斐比伎を探し出せ。そして取り戻せ。--あれを失うことは、吉備の行く末を失うに等しい」
 

 ……意識の覚醒と共に、斐比伎が一番始めに感じたのは、「寒気」であった。
(……う……さむい……)
 半濁した意識のまま、斐比伎は寝返りを打つ。何やら、頭の後ろがやかましかった。誰かが言い争っているような声がする。
「……なんという、乱暴な事をするんじゃ!」
 聞き覚えのある、甲高い声が響いた。少年のような、この声には聞き覚えがある。
(……少彦名……?)
 目を開け切らぬまま、斐比伎は眉を顰めた。
「斐比伎に何かあったらどうするっ」
「--寝てるだけだよ、その嬢ちゃんは。そう心配すんなって」
 ひどく気楽そうな声が返った。どうやら、青年らしき者の声のようだが--まったく聞き覚えがない。
「しかし、いつまでたっても目を覚まさぬではないか」
「これくらいでどうにかなってるようじゃ、とてもじゃねーがこの先乗り切れねーぜ?」
「しかし……」
「ほれ、大丈夫。嬢ちゃんはもう気がついたよ。なあ?」
 青年は大声で叫んだ。最後の「なあ?」は、どうやら斐比伎に対して発せられた物らしい。
(誰よ、馴れ馴れしい……)
 寝起きの斐比伎はやや不機嫌だったが、それでも意を決して身を起こした。大きなあくびを一つして、丸い眼をぱっちりと開く。
「なに、ここ……」
 半分寝惚けたまま、斐比伎はぼんやりと呟いた。頭を巡らして、周囲の様子を見渡す。
 自分が寝ていたのは、どうやら小さな小屋のようだった。壁面には編んだ竹竿が立てかけてあり、笠などが吊るされている。
 片隅には煮炊き用の土器が散らばる土間もあり、そこでは一応火も焚かれていた。
 この、狭い小屋の中にいる人間は、三人。
 斐比伎と、少彦名と--見たこともない男。
「……誰よ、あなた」
 斐比伎は怪訝そうに言った。