架空植物園
暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものである。暴力のような暑さも去って朝晩涼しくなってきている。秀樹は今まで引きこもり気味だったせいもあり、無性に木の多い所に行きたいと思った。家から10分ほどで大きな貯水池に向かうサイクリングロードに入れる。
サイクリングは妻が亡くなってから始めた趣味であった。持病のあった妻は激しい運動はもちろん、なだらかな坂道もやっとという感じであったので、一緒にこのサイクリングロードを走ったのはまだ発病していない結婚当初だけだった。絶対に疲れたという顔をせず、運動では秀樹には負けまいとしていた。
貯水池の手前まではずっとなだらかな道が続いている。そして乗ったまま登り切るのはどうかなあと思える坂も、若かった妻は歯を食いしばり登り切った。そして秀樹が途中で自転車を降りて歩いて追いつくのを、得意そうな顔をして待っていたことを思い出した。
あの頃とは体力が違う、秀樹は思いしらされる。それは当たり前のことで、もう30年以上前のことだ。それにしても坂道の半分も行かずに降りてしまったのは苦笑ものであった。坂の半分ほどで、歳のせいだけでなく道も変わっているんじゃないかと思った。
以前はもう少しなだらかで曲がりくねっていたように思う。そして以前には無かった分かれ道があった。下り坂の向こうを見ると、かすかに見覚えのある風景だった。そちらには池があって、そこを過ぎると大きな堤防がある筈だった。
上に行く道は少し細くて、周りの木の数が高い。知らない道であったが好奇心から上の道を選んだ。道は少しなだらかになっていたが、秀樹は自転車を押したまま歩く。少しの下り坂を過ぎると周りの樹々から切り離されたような小さな空間があった。空間の中心に灌木があって、それは何か意味があるような地形だった。その空間の縁を半円を描くように道は続いていた。
秀樹は自転車を停めてその空間の中心に向かった。2メートルほどの灌木の中隠れきれませんでしたとでもいうような白っぽいものが見えた。さらに近づいて見ると、何か植物のようだった。茸にしては大きいし、茎・葉・花という区別がつかない。秀樹は(タツノオトシゴ)を思い浮かべた。丈が1.5メートルほどのまっ白なタツノオトシゴが地面から生えている。そんな感じだった。
すぐ近くで線香の匂いがした。秀樹は線香の煙のような靄に包まれている気分になっていた。畏怖感を覚える何か不思議な状況にあるということだけが頭にあった。
……お父さん…… それは妻の声だった。結婚してすぐに子どもが出来たので、秀樹は妻にお父さんと呼ばれていた。目の前の白いもやもやとした形が妻の顔になった。その顔は晩年の疲れた顔ではなく、うら若き顔であった。秀樹は口を開けたまま、言葉にならない。
……老けたね…… 妻は笑顔でそう言った。秀樹は「お前が……」と言いかけて、次のことばを飲み込んだ。あとに続く言葉はいっぱいあり過ぎた。
……心配かけたからね…… 顔付きが亡くなる直前の顔に変わった。それはすぐに若い顔に戻った。
「元気か?」と秀樹は口にして、自分でその間抜けさに気づいた。妻が笑っている。
……ははは、元気よ、こっちで新しい男を探しているよ……
「また、笑えない冗談をいう」秀樹も笑ったが、少しぎこちない。
「いつでも会えるのか?」
……いつも会ってるじゃない。見えないし声も出ないけどね。でもここは順番待ちがもの凄い数だからね…… 妻の表情が曇ったまま少しずつ薄れていく。
……じゃあね…… 秀樹はかすかにその声を聞いた。目の前にはまっ白な奇妙な植物が見える。
了