架空植物園
武史が〈おんりょう草〉の咲くこの森にやってきたのは、半年前に亡くなった妻の墓が近いせいもあるのだが、噂を聞いて妻の声を聞いてみたいと思ったからである。転勤の多い職場であったし、仕事以外の付き合いも多く、家事と育児すべて妻に任せっきりの生活であった。人並み以上の収入はあったし、経済的には不満は無い筈だ、これで男の責任は果たしていると思っていた。一人になって慣れない家事をなんとかこなしながら、この単調な家事を文句も言わずやりとげてきた妻にねぎらいの言葉をかけたこともなかったことを思い出した。一緒に出掛けることも少なかったし、二人で笑い転げるという体験もなかった。寂しさも相まっていま頃になって妻にお礼を言いたいと思ったのだった。
〈おんりょう草〉の前には、先客はいなかった。武史は3本ある中の一番小さい〈おんりょう草〉の前に立った。亡くなった妻が小さかったからである。
〈おんりょう草〉からは線香のような匂いがしていて、武史は霊が宿るのは間違い無いような気分になっていた。だが、妻の顔を思い浮かべようとして、なかなか思うようにならなかった。果たして30年以上の結婚生活の間に正面から向き合って顔を見たのは何度あったのだろうか。食事中は新聞やテレビを見ていた。頭の中には仕事と遊びと他の女のことが占めていた。この場所に来てうろたえてしまった自分に情けなくなった。やっと妻の遺影写真の顔を思い浮かべた。武史は、お礼を言いたいと思っていた筈が、一刻も早くこの場を立ち去りたいという思いになっていた。しかし怨霊がそう命令したかのような思いにかられその前に正座した。
……あなた…… 声が聞こえた気がして武史はうなだれていた顔をあげた。思い描いていた顔とはまったく別人のような怒りの表情の白い顔がそこにあった。見たことの無い顔なのに妻であることを納得していた。
……あなたが帰りが遅いのも、たまに朝帰りも好きだった麻雀やパチンコ。休日に出掛ける競馬場もあなたの言う通りだと思っていました。でもある日、女がいることと、しょっちゅう会っていることも知りました。悲しくて悔しかったですよ。どうしようかと悩みました。悩んで痩せた私にもあなたは気づきませんでした。経済的なことを考えました。あなたに黙って昼の間はパートで働きました。そして年金が入る時期に、その半額を貰えば生活していけることを確認し、予定通りに離婚の筈だったのに、くやしい〜! こんな風になるなんて……
あまりにもすさまじい亡き妻の表情に、武史は文字通り腰を抜かし土下座もままならず、這いつくばったまま「ゆるしてくれー」と叫んでいた。
……また、来年もくるのですよ…… そう命令するように言って、制限時間があったかのように怨霊は消えていった。武史はまだ〈おんりょう草〉に頭を下げ、「ごめん」を繰り返していた。