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鳴神の娘 第一章「雷(いかづち)の娘」

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 斐比伎は、一通り父の笑いがおさまるのを待った。室の内に響き渡った笑声が止むと、斐比伎は甘えるように建加夜彦に懇願する。
「ねえ、父様。父様は、こんなことお許しにならないわよね。私は父様の娘で、吉備の姫よ。あの巫女さま達を、叱って下さるわよね」
「--いや。その必要はない」
 建加夜彦はきっぱりと言い切った。
「え……っ」
 一瞬、斐比伎の顔が強ばる。
 呆然と、斐比伎は建加夜彦を見つめた。父の真意を、測りかねるかのように。
「そんな顔をするな。お前らしくもない」
 建加夜彦は、指先で斐比伎の額を弾いた。
 普段やたらに気強い分、こんなふうに不安げな表情になったときの斐比伎は、痛々しいほど儚く見える。
 どこか幼く、脆いところを残したままの娘に、もっと真底から強くなってほしいと、建加夜彦は願っていた。--もっとも、父以外の人間の前では、絶対にこんな顔を見せることはないのだろうが。
「安心しろ。俺も神事には行かない」
 斐比伎を落ち着かせるように、笑顔を作って建加夜彦は言った。
「えっ!? 父様も行かないの?」
 斐比伎は驚愕の声を上げた。
「でも、鳴釜の神事は吉備で一番大切な祀りで、それに加夜王が行かないなんて事は……」
 斐比伎はうろたえながら呟く。父の言葉は、娘をますます混乱させてしまったようだった。
「ああ。本来ならば、考えられぬことだよ。だが、今回は特別だ。俺とお前は、吉備の中山へではなく、大和へ行くのだ」
「大和へ!?」
 斐比伎は、かすれた声で思わず叫んだ。今度こそ、本当にしんから驚いた。
「そう。大和へ行く。……いいか、斐比伎。落ち着いて聞きなさい」
 建加夜彦の声音が、真面目なものに変わった。それを素早く感じ取り、驚いてばかりいた斐比伎も、心を静めて、真剣に父の話に聞き入る。   
「急な話だが、磐城(いわき)の皇子が日継(ひつぎ)に立たれることが決まった」
「磐城の皇子っていうと……確か、吉備稚媛(きびのわかひめ)がお産みになった皇子で……」
「そう。兄君の方だ」
 建加夜彦の話を受けて、斐比伎は記憶の糸をたぐった。昔から、吉備は大王の妃を多く輩出している。稚媛も、その名の通り吉備氏出身の姫で、大王の妃の一人となっている女人だった。二十年以上前に妃入りした稚媛は、二人の皇子を産んでいる。長子である磐城の皇子と、次男の星川(ほしかわ)の皇子だ。
「日継っていうと、確か、次の大王になられる方のことよね」          
「ああ。大王家は、日神・天照大御神の末裔(すえ)であると伝えられている。故に、大王を継ぐものを『日継』と呼ぶのだ。……わが吉備では、王の後継者を『火継』と呼んでいるがな」
「……吉備は、火の神の国だものね」
 斐比伎はぼそっと呟いた。
「--でも、じゃあ、吉備系の皇子が、新しい大王になるってことなのね」
「ああ、そうだ。とても重要なことだよ」
 建加夜彦は、重々しく頷いた。

 泊瀬の大王は、妃こそ数多く召していたが、あまり御子には恵まれていなかった。
 それも皇子となると、長子・磐城と次子・星川、そして第三子白髪(しらか)の三人しかいない。
 白髪の皇子の母は、葛城の韓媛(からひめ)である。
 葛城は、大和にある古い豪族の一つで、かつては吉備に負けぬほどの勢力を誇っていた。だが大和領内の度重なる勢力争いの果て、今では昔の勢いをなくしてしまっている。
 更に、問題は皇子本人にも数多くあった。白髪の皇子は、生まれついての極端な虚弱体質で、常に何かしらの病気を抱えており、まわりの者からまともには育つまいと思われていた。しかも、その名の示す通り、皇子は奇形児だったのである。赤子の時から皇子の髪は白く、その目は赤みがかっていた。宮廷の人々は白髪の皇子を疎み、側に近づこうとはしなかった。つまり彼は、始めから日継の候補として考えられてはいなかったのである。
 数に上がっていたのは、長子と次子である二人の皇子。どちらも吉備系だ。

「前から話は出ていたが、今度正式に決まった。急なことだが、大和で祝いの宴が開かれる。ところが、それが間の悪いことに、神事と日程が重なってな……」
 建加夜彦は、疲れたように嘆息した。
「吉備五氏族の王のうち、年寄りどもは皆神事を優先させると言って譲らなかった。確かに吉備にとって、神事に王族が連ならないという事態は、ありえてはならんことだ。……しかし、宴に欠席するわけにもいかん。なにしろ、吉備系の日継の祝いだ。そこで話し合いの結果、俺と波久岐王が宴に顔を出し、残りの年寄りが神事に出ることになった」
「そうなの……」
 斐比伎は口元を押さえながら呟いた。
(ここ数日、父様が里を留守にしてらしたのは、その為だったのね)
 父の話を頭の中で反芻しながら、斐比伎はそう理解した。大和の情勢やら、吉備の事情やら、急に聞かされてなんだか混乱してしまうが……自分が単純に「神事に参加できない」と怒っていた一方で、上のほうは結構大変な事態になっていたようだった。
「……まあ、何にせよ、めでたい事には変わりない。折角の祝いの宴に、男達だけというのでは華がなくてつまらんのでな。俺も波久岐の王も、それぞれ姫を連れていく事にした」
「それじゃ私、父様と大和へ行くのね!」
 全てを理解した斐比伎の顔が一気に輝いた。
「だから始めからそうだと言っているだろう」
 言って、建加夜彦は喜ぶ娘の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「凄い! 私、吉備の国外に出るのは初めてよ! 父様と旅をするのも。すごい、すごいわ!」
 斐比伎は手放しではしゃいだ。
 彼女は普段、吉備ほどすばらしい国はないと思っている。豊かだし、進んでいるし、「都」である大和であっても、きっと吉備にはかなわないだろうと考えていた。
 だが、一度も見たことのない国へ行くというのは、また別の喜びだ。しかも、大好きな父の供をしての旅である。これ程興奮することがあるだろうか?
「宴には、豊葦原中からあらゆる国々の王や王子、姫達がやってくる。その中で、お前は吉備加夜族の姫として、正式に披露されるんだ。神事に出るより、よほどいいぞ」
「ええ父様! もう神事なんてどうだっていいわ」
「まったく、立ち直りの早い奴だ。先刻まで、あんなに怒ったり落ち込んだりしていた癖に」
 喜ぶ娘を見ながら、建加夜彦は苦笑した。
「まあ、そういうわけでな。近いうちに出立となる。色々と準備が慌ただしくなるだろうから、お前もそのつもりでいるように」
「はい、父様!」
 笑顔で返事を返す斐比伎の頭をポンポンと叩くと、建加夜彦は腰を上げ、そのまま室から出ていった。


「……ねえ、少彦名。今の聞いた?」
 建加夜彦が出ていくのを見届けると、斐比伎は己の襟首に向かって話しかけた。
「--わざわざ確かめずとも、すべて聞こえておるわ」
 襟の間からひょい、と顔を出し、少彦名は渋面で答える。そのまま斐比伎の肩に移動すると、器用に彼女の腕を伝い、とん、と板床の上に飛び降りた。
「大和に行くのよ! 父様と一緒に。皇子様方や、もしかしたら大王にだってお目にかか
れるかもしれないわ!」
「……それがそんなに嬉しいかの」