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鳴神の娘 第一章「雷(いかづち)の娘」

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 兵士は慌てて畏まった。幽鬼の如く現れた娘は、この御館の主・建加夜彦王の一人娘、斐比伎姫だったのである。
「気づきませなんだ。とんだご無礼を……」
 身を竦めて詫びる兵士を無視し、斐比伎は足早に御館へ向かった。裏口へ続く階段を上り、御館の周囲をぐるりと取り囲んだ回廊を歩む。
 普通、王族の姫や妻は、女たちだけの女館に住まうものだ。だが斐比伎は、幼い頃から、父と同じこの王の御館で育てられていた。
(よーし。うまい具合に、あんまり見つからずに入ることが出来たわ)        
 斐比伎はほくそ笑んだ。
 王の御館では、王族以外にも、供部・端女など、大勢の使用人たちが行き来している。仮にも「姫」である自分が、こんな罪人のような姿をしているところは、あまり他人に見られたくなかった。
 斐比伎はそのまま、自分の室に滑り込もうとした。--しかしその時。
「姫様!? まあ、なんというお姿ですか!」
 背後で叫び声が上がった。
(まずい……)
 斐比伎は、恐る恐る振り替える。 
  回廊には、数人の端女をしたがえた小弓があきれ顔で立ち尽くしていた。
「昼間からお姿が見えぬので、心配してお捜ししておりましたが、その格好……まさか、この真冬に川で遊んでおられたのでは……!」
 言い回しは丁寧だったが、言葉の端々に怒りが込められていた。
「うん、まあ、いや、そんなものかな……」
 斐比伎は困って言葉を濁す。小弓はわなわなと肩を震わせていた。
「よいですか、姫さま。普通であれば、真冬に川になど入れば、風邪をひき、悪くすればそのまま命を落とすのですよ! いえ、だいたい、王族の「姫」というものは、みだりに館の外などへは出ないもので、幼い頃からあれほど何度も言っているというのに、まったくあなた様は……!」
『斐比伎。誰じゃ、このうるさいばばあは』
 斐比伎の襟の中に隠れた少彦名が、こっそりと聞いた。
『小弓。私の乳母の一人で、一番やっかいな婆さんよ……』
 斐比伎は小声で言い返した。思わずため息が漏れる。折角うまく入れたと思ったのに、よりによって一番面倒な相手に見つかってしまった。
 斐比伎のことを心配してくれているのはわかるのだが、なにしろ彼女は口やかましい。
 しかも、乳母とはいえ、小弓は斐比伎が水の属であることを知らない。それ故、「ただ人」にするような説教を延々と続けるのだ。
(……別に、水になんかつかったって、全然平気なのに……)
 しかしそれを、面と向かって説明するわけにもいかない。
(面倒だなあ、もう……)
 斐比伎はだんだんいらいらしてきた。元来、彼女は短気な質なのだ。
「姫さま? 聞いていらっしゃるのですかっ」
「はい、聞いてます。わかってますっ。このままでは風邪を引くから、私は着替えます。
じゃあねっ」
 一方的に会話を打ち切り、斐比伎は自分の室に入っていった。
「姫さま? お召し替えならば、小弓がお手伝い致します!」
「自分で出来るわよっ。入ってこないで!」
 斐比伎は乱暴に扉を閉ざした。壁越しに、戸惑う小弓の気配を感じる。こんなことにまで聡いのは、やはり自分が水の巫女だからか。
(だからって、いい事なんか何もないわよ!)
 苛立ちながら、斐比伎は心の中で叫んだ。
 小弓はしばらく迷っていたようだったが、やがて端女らを連れてその場を去った。
 彼女の気配が消えると、斐比伎はほっとして、息をつく。
 膝を折って座り、襟の中から少彦名を取り出すと、板床の上に置いた。
「……ふう。実にせまぜましかったわい」
 少彦名は大仰に深呼吸した。そんな彼を、斐比伎は軽く睨み付ける。
「文句言わない! 今、御館の者達にあなたが見つかったら、大騒ぎになるんだから」
 斐比伎は少彦名の上に領布を被せた。
「こりゃっ。何をする!」
「私着替えるから。しばらくそうしてて。絶対こっち見ないでよ」
「さっきお前はわしを裸にしたではないか!」
「男は見られたっていいのよ」
 言いながら、斐比伎は濡れた衣を手早く脱ぎ捨て、新しい装束に着替えた。薄紅の上衣に、茜色の裳。鮮やかな黄色の帯を締めると、鏡に向かって座り、髪をとかす。
 横髪を結い上げ、簪と櫛をさす。化粧箱から美しい倭文の細帯を取り出すと、何本か髪に巻き付けた。
 支度を終えると、斐比伎は鏡の中をのぞき込み、満足げににっこりと笑った。吉備王族の姫にふさわしい、若々しくも華やかないでたちだ。
 自分一人でこういった身仕度が出来てしまうという点においても、斐比伎は他の姫達とは違っていた。
 「普通」の姫ならば、端女の手を借りねば、着替えなどとてもおぼつかない。しかし斐比伎は、身の回りのことは、ひととおり己の手で出来るよう、しつけられていた。
 無論、王族である以上、普段は端女の手も借りる。そこには、王族の権威といった問題も関わってくるからだ。
 --だが、「いざ」という時……なんでも、自分の力で出来るように。そういうふうに育て上げることが、建加夜彦の方針だった。
(……父様は、やっぱり私が『雷の娘』だったから、手元に置いてくれたのかな)
 鏡に映る自分を見つめながら、斐比伎はふと考えた。それは、時折彼女の頭に浮かぶ、消して消えない疑問だった。
 いつか、来るかも知れない戦のために。
 その時に、吉備のために戦う強力な巫女姫として。
「……私はねえ、赤ん坊の時、葦で編んだ船に入って、旭川を流れてきたんだって」
 領布に埋もれた少彦名に向かって、斐比伎は語りかけた。
「なんだか、あなたに似てるでしょ」
「もう見てもよいのか?」
「うん、いいよ」
 斐比伎の言葉を受けて、少彦名は領布の中からずるずると這い出してきた。
「……わしというよりも、蛭子(ひるこ)に似ておるの」
「『蛭子』? --何それ?」
「伊邪那岐・伊邪那美の二神が共に生んだ最初の子供じゃ。手足を持たぬ不完全体じゃったので、葦船に入れて流された」
「自分たちの子を、捨てたの? ……酷いことするね」
「酷いかどうかは解からぬ。やつらには、やつらの考えがあったのじゃ」
「納得できないよ、そんなのは……」
 斐比伎は思わず俯いた。
 神々の考えは、人である自分には理解できない。けれど、例え種族が違っても、子を捨てる親に対し、「酷い」以外の何が言えるだろう。いくら、不完全な体だったからって。
(--じゃあ、もしかしたら、私の生みの親も、私が何か足りなかったから捨てたの!?)
 斐比伎は裳を握り締めて唇を噛んだ。
 だとしたら、許せない。
 絶対に……。
「斐比伎、それで、流れてきた幼いお前はどうなったのじゃ?」
 急に顔色を変えた斐比伎を気遣うように、少彦名が聞いた。
「……ああ。うん。……でね、それをね、たまたま狩りに来ていた父様が見つけて、自分の娘にしてくれたの」
「ほう、優しいではないか」
「そうよ。父様は、とっても優しいの」
 --そう。
 きっと、最初に自分を拾ってくれたのは、捨てられた赤子に対する憐憫からだったのだろう。
 けれど、その後時を経て、斐比伎を「吉備の姫」としてはっきり認めてくれたのは。
 恐らく、斐比伎が雷の力を持った巫女だったからだ。
 父にそのことを問い質してみたことはない。