鳴神の娘 第一章「雷(いかづち)の娘」
「私の名前は斐比伎よ。神様にも、名前はあるの?」
「--わしは、少彦名神(すくなひこなのかみ)と、いう」
小人は重々しく言った。
「ふーん。少彦名かあ。そういえば、そういう神様の名前も、聞いたことあったような気がするかも……」
斐比伎は、額に指を当てて遠い記憶の糸をたぐった。
確か、小さい頃から、語部達によって幾度か聞かされたことがあったはずだ。
遙か古、遠い神代の物語。この豊葦原の島国が、まだ生まれたばかりの頃のお話……。
天地のはじめの時、高天の原に成りませる神の御名は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は、みな独神に成りまして、身を隠したまいき。
次に国若く、浮かべる脂の如くして、くらげのように漂えるときに、葦の芽の如く萌えあがる物に因りて成りませる神の名は、宇摩志葦牙彦遅神。次に天常立神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまいき。
上の件、五柱の神は別天つ神……
「……それで、この別天つ神の次に、国之常立神から伊邪那岐・伊邪那美神までの、神世七代の神々がお生まれになったのよね」
そして、天つ神々に命じられた伊邪那岐・伊邪那美神は、豊葦原を「国生み」し、地上の営みを司る多くの神々を「神生み」し、その果てに天照大御神・月読命・須佐之男命の三貴子を得た。
高天原の司となった天照大御神は、後にその御子を高千穂の峰に降臨させ、更に後、その御子の末裔・伊波礼彦命が東征を行ない、大和入りして、初代の大王になったという。
「……ほう。今の人の世には、そのように伝わっておるか」
少彦名は感慨深げに呟いた。
「たしか、そんなふうに聞いてたわよ。もっとも、ずいぶん昔のことだから、本当かどうかなんて、わからないけど……」
何にせよ、あまりにも遠い時代の話だ。
初代といわれる伊波礼彦の大王にしたって、今の泊瀬の大王より二十代も前の存在だ。年月にすれば、ゆうに二百年以上は遡る。
神威に満ちた神代は、最早はるか遠い、想像するだけの世界でしかない。
「--その神産巣日神(かんむすびのかみ)が、わしの親神じゃ」
少彦名は、誇らしげな面持ちで告げた。
「えっ!?」
斐比伎は驚き、己の左肩に座った少彦名をまじまじと見やった。
「……でも、五柱の別天つ神の中でも、最初にお生まれになった三柱の造化三神は、天地と万物の生成を司る、特別な存在だって聞いてたわよ。みな、独身神であられて、性を持たぬゆえ、夫婦神となられることはないって」
「神族の子生みとは、子宮に命を宿すことばかりではない。あの天照とて、誓約(うけい)にて多くの子を生んでおる」
「うーん、まあ、そうなんだろうけど……」
斐比伎は言葉を濁した。確かに自分は『雷の娘』なのだろうが、これまでごく普通に人の世で生きてきたのだ。神代の事情などは、よくわからない。
「じゃ、少彦名は高天原からやってきたの?」
「--はじめに生まれたのは、確かに高天の原じゃった」
斐比伎に問われた少彦名は、何故だか妙にもって回った言い方をした。
「高天原生まれねえ。しかも、最高神の一柱、神産巣日神の御子かあ。神世七代の最終神・伊邪那岐神の御子であられる天照大御神よりも上位神じゃないのお?」
斐比伎は、少彦名を茶化して言った。
無論、本気ではない。
天地をあまねく光り照らす天照大御神よりも、この自分の肩に乗った、ずぶ濡れ小人のほうが偉いだなんて。到底真面目に思えるはずがなかった。
「……じゃが、ある時、親神の掌の股よりこぼれ落ちてしまった。それ以来、高天原には帰っておらぬ」
少彦名は淡々と語った。
すでに、陽はかなり落ちかけている。前方に現れた加夜の里は、夕暮れにすっぽりと包まれようとしていた。
斐比伎は横目で、肩に乗った少彦名を見やる。夕陽を受けて、彼は少し眩しそうに眼を細めた。
「……帰りたくはない? 親神のもとへ」
歩きながら、斐比伎は聞いた。
「いや。今となっては、そうは思わぬ」
「……そうなんだ」
抑揚のない声で、斐比伎は呟いた。
高天原からこぼれ落ちた神と、人の世からあぶれた娘。
どちらも「異端」の存在。
(ある意味、似たもの同士よね。でも……)
少彦名は、己の生まれをしっかりと解かっている。
斐比伎は--自分の出自を知らない。自分が何なのか、正確には何もわからない。
「水の属」--「水津波の巫」とも呼ばれる者たちが、この豊葦原のどこかの国にいるらしい。闇於加美神などの水を司る神々の神裔である彼らは、水の護りを受け、全ての「流れゆくもの」を支配する能力を持つという。
そして、それらの内の一つが、『雷の娘』という巫女……。
(ああ、やだやだっ!)
自分が何者かを突き詰めていく時、斐比伎の考えはいつもここで止まる。--いや、停止させるのだ。
考えたくない。考えてはいけない。これ以上は。だって……。
「……ねえ、『神様』」
近づいた里を見据えながら、斐比伎は自身の思いを振り払うように、少彦名に言った。
「高天原からこぼれ落ちた、少彦名神。あなたは、一体どこからこの吉備の国にやってきたの?」
「……『常世』の国じゃ」
「常世?」
斐比伎は聞き返す。
「--うむ。わしは、つねに……」
そこで一度言葉を切り、少彦名はきっぱりと言った。
「海の彼方の『常世』より来たる」
冬の陽は、落ちるのが早い。
夜闇を迎えた加夜の里には、ひとつひとつ灯が点り始めた。族人(うからびと)の住まう小屋の窓からは、明かりと共に、夕餉の匂いが漏れる。
吉備--加夜は、豊かな里だ。族人は無論、奴人であっても、飢えに苦しんでいる者はあまりない。一日の仕事を終えた夕餉時には、皆の顔に幸福な笑みが浮かび、里は穏やかで満ち足りた空気に包まれる。
広い里の一番奥には、王の御館がある。
焚かれた篝火に照らし出され、御館は、その荘厳な姿を闇の中に浮かび上がらせていた。
高床式に造られた大きな御館は、各所に階段がしつらえられてある。広い前庭では幾つも松明が焚かれ、まるで昼間のように明るかった。
王の御館は、常に兵士によって固く警護されていた。その勇猛さは、大和にまで鳴り響いた、吉備の兵達である。例え族の者であっても、怪しげな者は、一切王の御館に近づくことはかなわない。
厳しい顔で裏口を警護していた兵の一人は、ふと、こちらに向かって駆け込んでくる人影に気づき、大声を上げた。
「誰だっ。止まれ!」
走っていた人影は、兵の前で素直に止まった。兵士は、持っていた松明を掲げ、うさんくさげに人影を照らし出す。
怪しい人影は、女--小娘だった。
明るいところで見ると、小娘はなおさら怪しかった。顔が判らぬほど乱れ落ちた長い髪、濡れそぼった衣--まるで幽鬼のようだと、兵士は一瞬怖気を感じた。
「おい、おまえ--」
勇気を出して、兵士が問いかけた、その時。 小娘は、額の髪をかきあげ、顔を上げると、兵士を見据えて気強く言った。
「--思ったより遅くなったわ。開けなさい」
「こ、これは姫さま……っ」
作品名:鳴神の娘 第一章「雷(いかづち)の娘」 作家名:さくら