merry
三
「そのフライ、美味しいの?」
……頭の中に声が響く。
えーと。
うん、気のせい。
本日の夕食は鱸のフライだ。
鱸は揚げるとふわふわして味を楽しむと言うよりもふわふわの食感が楽しい、と私は個人的に思う。
何より下処理が楽でいい。
如何に簡単に美味しくは家庭料理の基本だと思う。
「ねえ、はーちゃん。それ美味しいの?」
また、声がする。
はーちゃんって私のことだろうか。
小学校以来だな、そんな風に呼ばれるのは。
女の子の声がして、はーちゃんと呼ばれました、と申し出たところでアキさんは気にするなの一言で全部を済ませてしまうのかな。
でも明日病院には行ってみようかな。
アキさんのご厚意で夕食を一緒に戴くのでメニューは私の食べたいものとコストの兼ね合いの上で決定される。
アキさんが好き嫌いのない人で良かったと心から思う。
が。
何故今日私はフライを選んでしまったのだろう。
知らない振りって意外としんどいものなのね、と痛感する。
「はーちゃん。もみたんはフライより天麩羅が好きだよ」
……なんですと?
「あれ? 聞こえないのかなー。もみたんは聞こえてるかもしれないって言ってたけど、違ったのかな。ケロ爺、どう思う?」
ケロ爺って誰。
「さてのぉ。ぼんずと一緒に居ったらその内聞こえるやもしれんの」
「え。じゃあ、どうやったら天麩羅が好きって教えてあげられるの!」
「もう揚げておるんじゃろ? 遅かろうて」
……そうね、もう揚げちゃってるよ。
「この娘っこにわしらが居るって知れたら驚いて来んくなるやもしれんでの。猫や、もう少し様子を見たらどうじゃ」
……ケロ爺とやら、お気遣いありがとう。
もう十分に驚いてるよ。
油使ってるからここに居るだけで本当なら飛び出して行きたいんだよ。
「あっ」
心の中で突っ込んでいる間にフライは狐色から茶色になってしまった。
あーあ、やっちゃった。
疲れてるのかな。やっぱ病院行ったほうがよさそう。
「ご飯出来ましたよー」
お勝手から齋藤嬢の声が響いた。
彼女の作るものは美味しい。
嬉しい誤算だ。
食事が美味しくないと言うのは殊の外ストレスが溜まるもので、食が人を作る、と言って憚らなかったのは母だ。
確かにそうかもしれない。
クライアントにはこの頃は顔色がいいですね、と目を輝かせて言われ閉口するがまあ食事の充実と女性の影は安直ながらも世のゴシップの常なのだろう。
だがしかし家政婦を雇いましてと言うと好色な目を向けるのは止めていただきたい。
そんな趣味があると思われるのは甚だ心外だ。
漂っていた匂いから察するに今日は揚げ物だろか。
天麩羅だと少し嬉しいなと思いながら足を向けた。
供されたのは残念ながら天麩羅ではなくフライだった。
良く火が通ってそうな茶色さ加減で、黒くないだけましな雰囲気を漂わせて居る。
バツが悪そうに視線をうろうろさせて居る齋藤嬢。
彼女にしては珍しく、いつもなら今日はナントカですよ、こうやって食べてくださいね、と案内があるのだが、今日はないらしい。
茶色は彼女の方が濃い。
見事にグラデーション掛かっている。
何かあったのだろうか。
「どうかしたの、お嬢さん」
「あははは、申し訳ありません……」
「何もないならいいけど」
力なく笑う彼女を見ながらフライを一つ口に放り込んだ。
「鱸のフライモドキです」
鱸か。
天麩羅よりはフライの方が美味しいかもしれない。
「あの、何やらわたくし具合が良くないのか幻聴を耳にしますので、明日病院に行って来ようと思います」
意を決しました。
そんな風に顔に書いてある。
「ええええ、はーちゃん具合悪いの? 大丈夫? ケロ爺、どうしよう、はーちゃん具合悪いんだって!」
きゃんきゃんと猫が騒ぐ。
横にある大カエルの置物は呆れた様に猫を見ていた。
齋藤嬢は目をギュッと瞑っている。
ははーん、原因はこいつらか。
目が良いとは櫻井から聞いていたが耳もそこそこ良かったのか。
ハッタリで話声が聞こえてるかもしれないとは言ったがハッタリじゃなかった様だ。
「それは今日だけ?」
カンテラを傾けながら訊いてみる。
「何がです?」
「幻聴? みたいの」
彼女は視線を天井に向け否を告げる。
「直に言葉がわかったのは今日だけですが、以前から話声のようなものは聞こえてましたよ」
なんてこった。
それじゃ大分前から悩んでたんじゃないか。
「あー……、アタシが不思議な事があっても気にするなって言ったからか」
顎をぼりぼり。
「お嬢さん、病院はちょいとお止めなさいな。ちゃんと説明するから。今は食べましょう」
原因がわからない事を追求するために病院に向かうのは、まあ、良くある話で、原因を知ってる身としては無駄足を運ばせたくない。
フライは良く揚がっていたお陰で冷めてもしんなりとはしてなかった。
さて、ナニから話したものかねえ。
そう言ってアキさんは煙草盆に灰を落とした。
カンともキンとも付かない、衝撃が金属に伝わった小さな音。
その音が不自然じゃなのが時代掛かってるなあと思う。
「んーと。お嬢さんの目は生まれつき?」
「はい?」
目は生まれつき付いておりますが。
「色んなモノを視るんでしょ? お坊からそう聞いてるけど」
あー……、そっちか。
「ええ、まあ」
「辛かったでしょ? 大方の人間には理解が難しいことだからねえ」
慈しみ、という感情が言葉に乗ったらこういう響きを持つのかなと言う声音でアキさんは普通に見せかけた優しい声で言った。
「どうなんでしょうか。幸いわたくしの家族は理解がありましたので孤独と言うわけではなかったです」
「そう。さて、ナニから話したものかねえ」
もう一度、アキさんはそう言って湯のみを口に運んだ。
話あぐねているのか、話す事をまとめているのか、それは私からはわからないけれどアキさんは暫く黙した後、溜め息を吐いて話し出した。
「お嬢さん。長い話になるけれど、まあ、お聞きなさいな。この世にはね、在ると思われてそこに在るモノがいるんだ」
いい例が神社だね。
寺社に祀られている古の生きた人間ではなくて、自然に人格を与えて祀っているのが神社だ。
まあ中には英霊を祀っている神社もあるが、それはむしろ寺社に近い。
さて、彼らがどういう概念かはさておき。
そこに在ると信じられて生まれた存在は何も神に限った事ではない、と言うのが趣旨なんだ。
プカリプカリ、吐き出される煙と一緒に紡がれた話は聞いた事あるような、初めて聞くような、興味深いものだった。
「食事のときにキンキン声が聞こえていたでしょ? あれ、水屋の上の猫の置物の声ね」
猫は鼠を獲るもの、蛙は水辺に住むもの、転じて台所を守るモノとして置かれている、とアキさんは続けた。
「役割を与え、そう在るようにと生まれた結果がアレなんだけどね」
何で幼女なんだか、の呟きに思わず聞き返してしまった。
「えっ、幼女?」
「そ、幼女。あんなんでもアタシより遥かに長生き」
どうやらアキさんには幼女が居る様に見えてるみたい。