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ニ
私がこの家に家政婦としてきて一番最初に驚いたのが埃だった。
一体いつから掃除をしていないんだろう。
恐らくアキさんの生活スペースであろうと察せられる寝室(の様なもの)とお風呂場とトイレと縁側と、それらを繋ぐ導線だけが塵一つ落ちてないと言う摩訶不思議。
いや、確かに不思議な事が起こる家だとは聞いている。
聞いているけれども――。
「っぶしっ!」
ああ、くしゃみが止まらない。
一体どうしたらmの前にcが付くほどの埃がたまるのだろう。
そしてこの家の玄関は庭先の濡れ縁に違いない。
「アキさん」
掃除用具は探すより買ってきた方が早そうだったので振り返って雇い主に声をかけてみた。
「んー?」
「大変申し訳ないのですが、掃除用具(大掃除級)を買いに出てもよろしいですか?」
「括弧と括弧とじるまで言わなくてもいいんじゃないの?」
「オブラートに包んでみました。」
「包まれてないよ」
「それは失礼しました」
多少の嫌味は許してほしいと思う。
ああ、そうだ。
物差しも買ってこよう。
さて、そんなわけで掃除は上から。とは言えどもどこから手を付けたらいいのかさっぱりわからない。
正確に言うなら何の器具を使うのが適当なのか皆目見当が付かない。
ハタキでも箒でも掃除機でもなく棒切れを拾ってくれば良かっただろうか。
掃除用具を買ってきて気合入れてみたものの。
使ってない部屋の天井には綿埃にヤニが付いて固まってまるで氷柱のようだ。
廊下の床の埃は買ってきた物差しで計ったら一センチ強もあった。
家具にいたっては言わずもがなだ。
平屋の日本家屋、庭に接している部屋を開け広げているのだから多少なりとも風が通ってもおかしくはないのになんだろうか、この惨状は。
なぜ、この人は健康を害さないのだろう。
それよりも何よりもあの住職は何故この惨状に目を瞑っていたのだろうか。
もう謎が謎を呼んで呆然とするよりなかった。
そもそも下手に欄間などあるからいけないのだ、この家を建てた大工は何を考えてたんだ、と何の罪もない大工に心の中で八つ当たりをして溜飲を下げてとりあえず私は箒を手にした。
私は極普通の一般家庭に生まれ育ったので家政婦の仕事とは何たるやをけして知っているわけではない。
ので、ここのお話があった際に私が知りうる限りの家政婦のイメージを伝えそのような意識でいいのかと祖父に問うた。
「まず掃除洗濯炊事ぐらいしか想像できないんだけど?」
「住職さんの話じゃそれだけ出来りゃ十分だってよ。一女、どうだい?」
「爺様、それは打診の振りした決定よね?」
「だってお前ひまだろ。家事だって嫌いじゃないし」
そりゃ快適に暮らすためなら労力を惜しんではいけないという教育方針の元に育ったのだから出来ないわけじゃない。
出来なくはないというレベルであって人様にサービスを提供できるほどのものではない、と言う事を分かっているのだろうか。
「……」
現在穀潰しの私には分からないお寺のなんたら委員会だかなんたら会だかの役員を務める祖父の顔を潰す訳には行かず渋々承諾した。
大人のセカイはしがらみが多くて困る。
……ついでに某ベテラン女優の真似もしていいのかと聞けば良かった。
もっとも母さんや婆様が見ていたら「一女さん、はしたないですよ」と眉間に皺寄せて咎められるのだろうけれど。
でも母さん、婆様。
そう言う下種な楽しみすらこちらのお宅にはなさそうです。
このお話をもってきた住職に爺様。
ごめんなさい。私、早々にめげるかも知れません。
嬢ちゃんは上手くやってんのかねェ。
あの怠け者を押し付けてしまった負い目が櫻井の足を例の家から遠のかせていた。
カッコーン。
庭の猪脅しが何度目かの音を響かせている。
手元の半紙には力強いへのへのもへじが黒々と誇らしげにしている。
己の後顧の憂いを絶ったつもりが憂いだらけじゃないか。
「あなた」
年相応の貫禄を滲ませる細君の声が呼びかけの形を取りながら窘めてくる。
「なんでィ、里織さん」
「齋藤さんのお嬢さんが心配なら様子を見にいらしたらいいじゃありませんか」
「いやいや夕方にはこいつを取りに中野さんがですな」
「身が入ってないから命名がへのへのもへじになるんですよ、あなた」
何枚目です? 他に人が居ないからいいものの、この様な様はとても見せられませんよ。無駄に経費を使わないでくださいな。
細君は寺の経営には欠かせない存在で、小坊主たちは下手をすると住職の自分よりも細君の言葉に従う節がある。
よって細君の言葉はある種絶対の響きを持っている。
「……一時間ほど出てきます」
半紙をくしゃくしゃに丸めて櫻井は席を立った。
久しぶりに訪れた幼馴染の家は見違えるほど綺麗になっていた。
反比例して年若い女子がくたびれたジャージ姿で化粧もせず頭にタオルを巻いている様を目にした時には負い目を通り越して罪悪感を感じずにはいられなかった櫻井である。
すまん、嬢ちゃん……。
項垂れた櫻井を目聡く見つけたのは幼馴染だった。
「黄昏てもコミカルになるのは一種才能だな? お坊」
「……」
細君には気分転換しろと寺を追い出され、幼馴染には皮肉られ、町に出ればそれなりに敬われる己の立場はどこに行ったのだろうかと思わずにはいられない。
「あ、お坊様! ただいまお茶をお持ちしますね!」
黄昏る櫻井を客人と認め、生き生きと声をかけたのは櫻井に罪悪感を覚えさせた当の本人だった。
定位置に腰をかけて幼馴染に声をかける。
「見違えるほど綺麗になってるな。この家の掃除は骨だったろうに」
「彼女はとても頑張り屋さんだね」
おや? と櫻井は眉を上げた。
「頑張る人を見るのはとても気持ちの良いものだねえ」
それが明後日の方向に向いてないのが尚いい、と幼馴染は満足そうに言った。
「素直に褒めるなんて珍しいな。それよりもまさか任せっきりとか言わないよな?」
「役立たずが手を出していい結果に導かれない事なのは自明の理だが。出来る事は邪魔にならない様にしてることと必要経費を出すことだけさねえ」
さも当然、と言った体に櫻井は頭を抱えたくなった。
「お坊様? お具合がよろしくないのですか?」
そこへ茶碗を乗せた小さなお盆を持ったジャージ女子が現れた。
「……嬢ちゃん、苦労かけるなあ」
「いいえ、お仕事ですから」
無料奉仕なら言語道断です。
晴れやかな笑顔が櫻井の目には眩しかった。
最初こそは呆然としていた齋藤嬢は何かを振り切った様に家中を隈なく掃除をしだし、今やほぼかつての趣を取り戻していた。
聖獣を取り入れた欄間は艶々ピカピカに襖も障子も目に優しい白さに変わっている。
あちらこちらに配されてる置物にいたっては位置を違えることなくかつての姿に貫禄を加え泰然とそこにいる。
庭に並ぶ骨だけの障子や、風に靡く着物の姿は、この家に女手がまだあった頃には年に一度はお目にかかったもので、何年ぶりかにその光景を目にして懐かしさが胸をよぎったものだ。
かつてこの家にいた女手は皆鬼籍に入って久しい。