merry
一
妙厳寺の住職、櫻井はその日も町から少しはなれた良く言えばクラシカルな、悪く言えばよく建っているといえる、過去の職人の腕に出来得るほどの賞賛を贈りたくなる古めかしい日本家屋に来ていた。
この家の主は櫻井の幼馴染で、目下彼の悩みの種である。
「おまえさん暇なんだねえ?」
日向ぼっこをする猫宜しく縁側に横になりながら、足元に座る櫻井をからかう。
「坊主が暇な事はいい事よ」
「そぉだねぇ」
カカと笑う様を眺めて家の主は呑気に同意した。
「なぁ椿」
「椿てなぁ誰の事だい」
まさかアタシの事じゃないだろうね?
猫の様な、ほんの少しの敵意を笑い飛ばしながら、
「俺とおめーしかいなくて他の誰だって言うんだ? もうボケたのか?」
と混ぜ返した。
幼馴染が椿と呼ばれていたのは遥か彼方、昔の話ではあるが櫻井にとって椿と言う名前が一番馴染む。
「椛の方がいいのか? それとも桂? 梼? 柊? 栢?」
次々に上がる名前に幼馴染は嫌な顔をし、好きに呼べ、と吐き捨てた。
「毎回毎回懲りないねえ」
くくくく、と櫻井は忍び笑った。
幼馴染は少し風変わりな家に生まれ、本人も少し風変わりな性質で、少し風変わりな生業を持っているが所以の風習で名前がころころ変わっている。
寺の息子としては羨んでいたこともある。
僧籍前は善行といかにもな名前で、苦い思い出もあるのだ。ちなみに名前を変えるただ一回のチャンスであった僧籍の今は行観と言って更にプレッシャーのかかることこの上ないと彼は思っている。
「……そういや、今の名前を知らんな。なんていうんだ?」
土地に根ざすようにとの願掛けで木の付く名前ばかりを付けられていたと知り合って暫く後に聞かされたが今どういった名前を名乗っているのかふと興味を引かれた。
返答の変わりに人差し指が向けられた方向を見ると花盛りの水芭蕉がある。
「句でも詠むのか」
知らない間にずいぶんと高尚な趣味を作ったな、おい?
鼻で笑った櫻井に幼馴染は「五月雨を――」と有名な句を口にした。
「少しくらい捻ろよ」
呆れる櫻井の相手に飽いたのか、幼馴染はだるそうな口調で用件は何かと尋ねた。
「ちったぁ人間らしい生活をしろというな、坊主のありがてぇ説教をしに来た」
「手前で有り難いだの説教だの言ってる時点でアウトだな」
にべもない。
「……」
櫻井とて大の大人の世話を好きでしたいわけではない。
放っておけば水と砂糖と酒のみで飢えを凌ぎ、日がな一日縁側で寝て過ごし、そうそう出歩くこともないのに何故か切れる事のない煙草と文庫――訪問の度に違うタイトルの本を手にしている――を片手に、気が付けば一月が経っていたと言う事が度々あるのだ。
亡くなった幼馴染の母君も大概変わっていたけれど、彼女は美しいものを好み、美味しいものを食べ、面白い事を好み、大いに活動的であった。
そんな人の子供がなぜこうなったのか謎で仕方がない。
「善行君、うちの子を頼むわね」
あの子あんなんでしょ、だからね。
生前、母君も人の名を呼ぶ人ではなかったのだが、臨終の際、最初で最後名を呼ばれた。
名を呼び何かをすると言う行為は、実は恐ろしく強制力のあるものなのだとかつて彼女は言い、彼女の言葉を借りるなら、私たちは面白いギフトを貰っているのだけれどそれは迂闊に使ってはいけないものなのよ、だからお名前を呼ばなくてごめんなさいね、だそうだ。
なにやら説明されたけれど詰まるところ言霊の事なのだろうか、と櫻井は思っている。
ちょっと風変わりな人種が名前を呼ぶと言う行為は諸刃の剣なのだと。
確かにそうなのかもしれない。
彼女が逝去して暫く経つと言うのに、こうして律儀にこの生活能力の欠けた幼馴染を案じてあれこれ思い悩んでいるのだから。
この事を、ただ一度呼ばれて頼みごとをされたから心理的に負荷がかかっている、またはその事による思い込みと、どこぞの偉い学者や医者はきっと口を揃えて言うに違いない。
だが違うのだ。
実際されてみるとわかる。
絶妙なタイミングで「思い出す」のだ。
櫻井だって決して暇で昼行灯と言うわけではないし、普段ははっきり言ってこの幼馴染の事など頭からすっぱ抜けてさえいる。
そりゃなかなか名前を呼ばないし、呼ばせないわけだ。
思いふける櫻井を心なし気持ち悪いものを見るような視線が刺した。
「なんだ?」
「気持ち悪いやつだな。奥方はどこが気に入って嫁に来たんだろう」
真顔で言われカチンと来る。
まだまだ青いな、と櫻井は自笑した。
「俺の事よりおめーだよ。何だこの埃だらけの家は。ちったあハタキかけるくらいしろ」
「埃じゃ死なん」
「どうせろくに飯も食ってねーんだろ? だからな? もうちっとだけ自発的になっちゃどうだい」
「毎回毎回懲りないねえ。」
櫻井の口調を真似る。
「馬鹿言ってんじゃねーぞ。だがまぁおめーの言う通りだ、このやり取りを繰り返すのも不毛だな」
にやりと笑って櫻井は幼馴染に言った。
「斎宮ゆかりの一姫の世話なら受けていいって言ったよな。見つけたからな、文句言うなよー」
「……ほー、それはスバラシイ」
本当に探し出してくるとは心外だと言う顔を見せる。
何せ櫻井は事ある毎にやれ掃除をしろだの、やれまともな飯を食えだの、やれ何だのかんだの、あまつさえそんなに家事が嫌なら家政婦を雇えだのとあまりの煩さにか、かなり高飛車な条件を出されたのだ、大分前に。
「全く頓知を出してやがって。てーへんだったんだぞ」
「答え合わせしようか?」
「いらん。ここで余計な事言ったら振り出しより悪い事になりそうだ」
長い付き合いは伊達ではない。
明日、来る様に伝えるから。
そう言って櫻井は家を後にした。
「ごめんくださいませ。妙厳寺のお坊様のご紹介で参りました齋藤一女です」
庭先にやってきたのはまさしく斎宮ゆかりの一姫だった。
坊主の顔の広さを忘れていた。
国内で両手に収まる順位を誇る苗字だ、無きしにもあらずとは思っていたが該当者が居、働こうとする若者がいようとは。
さすがは平成大不況。
「あー、ハイ。住職は一緒では?」
「ご用が長引いてるそうで、お約束のお時間もありましたので先にお伺いしました。ご迷惑でしたか?」
「……。イエ。若い娘さんだとは思っていなかったので」
謀ったな、坊主め。約束の時間って何だ。
櫻井が聞いたら憤慨しそうなことを心の中で呟き、緊張した面持ちで眺める齋藤嬢にさてどうしたものかと瞬時悩んだ。
自分の言葉に責任をもたないのもどうかと思い、続ける。
「上がっていただきたいところだけど。ご覧の通りでね。ここで話を詰めちゃってもいいカシラ」
「はい」
「そう。じゃあ、これから話すことにあなたが納得するならこの家の家事をお願いしたい」
「はい」
きっと彼女は庭でする話なのだろうかと思っているに違いない。
「まず一つ目。申し訳ないけどアタシはアナタの名前を呼ばない。二つ目、この家には不可思議な事が起こるけど気にしないこと。これに納得してくれるならあとは好きに動いてくれていい」
どうかな? 質問はある?
「はあ。あの。時間などお聞きしても?」