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おもかぴえろ
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novelistID. 46843
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merry

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「なあ。」
 涼やかな声が私を呼んだ。
 この人はけして人の名を呼ぶということをしない。
 曰く、世の中には色々な理があるのだよ、だそうだ。
「キミにはあれが見えるかい?」
「桜ですね。老齢の」
 煙管で示された方向には桜の老木が佇んでいた。
 ……木が佇む?
 おかしな表現ではあると思うけれど、佇んでいる、様に見える。
「そぉか。なるほどね」
 ふーん、とプカリと煙を吐き出し、
「桜、ね」
 開いてるんだが開いてないんだが遠目には全く判別できない細い目をさらに細めて呟いた。
 それから「キミの表現は的確で面白いね」としっかり私を見て言った。
 桜を見て桜だと応えたことなのか、老齢と判じて応えたことなのか判らないが的確で面白いと評されるならきっとそれは、碌でもないことなのだろうと察する。
 そもそも見えるものをわざわざ見えるか? とは訊かないものだ。
 見えません、とでも応えておけば良かったと思わないでもないが見えたものは仕方がない。
 中途半端な視力など持つべきではないと我が身を悔いるばかりだ。

 さて、少し身の上話にお付き合いいただきたい。
 私の名前はサイトウハジメ、サイトウは齋藤、ハジメは一女と書く。
 読んで字の如くちょっと変わった書き方をする普通の名前と特に珍しくもない苗字。
 名乗って字を見ると初めて会った人はすべからず長女なんだね、親御さんは新撰組がお好きなの? とコメントを寄せてくれる、そんな判りやすい名前。
 容姿に関しては特記するようなこともなく、平々凡々であることを自負している。
 そんな名前も見かけもその他大勢枠に入っている私の唯一の特徴と言えば視力がよいと言うこと。
 もちろん、計測できる視力もだけれど、私には目視できなくていいことまで目視してしまうと言う傍迷惑な視力がある。
 小さな頃はそれなりに恐怖も味わったものだけれど、かれこれ干支が二周もしてしまえば慣れてしまうものだ。
 そして二十歳過ぎればただの人と言う言葉の本当の意味を私なりに身をもって知ってしまった次第であり、慣れとは恐ろしいものだと思う次第である。
 そんな私の仕事は家政婦モドキとしてあるお宅のお世話を仰せつかっており、この話も菩提寺の住職が暇なら頼まれてくれないかと祖父を通してきたものだった。
 当時の私は少々訳ありで職を辞し、家で良く言えばのんびり、悪く言えば上げ膳据え膳の自堕落な生活を送っていた。
 そんな生活もそろそろ何とかしたいと思っていた矢先の話で、渡りに船だ、いざ行かんと――まあ、それも内容が内容だけに渋々ではあるものの決まった以上はと言う意味で――意気込んだ初日、雇い主と顔を合わせてびっくりした。
 その人は男性なのか女性なのか全くわからない空気感を持つ人で、声も背格好も身に付けているものも顔ですら性別を推して知る手掛かりにならない。
 微かな期待を持って名を尋ねると、今は秋だね、じゃあアキと呼ぶといい。と応えてくれた。
 一応の姓名はあるようだけれど、面白いと言うかなんと言うか。
 便宜上、その人をアキさんと呼ぶことになった。
 言っては何だが、平凡を自負してるものの私は変わったことにも縁があるようだ。

 話を戻そう。
 私から見た老齢の桜はアキさんにとって興味を引かれるものでも用があるものでもないのか、復刻された作品だと言う文庫を片手にプカリプカリ煙を吐き出している。
 余談だが、私は平成のこの世で紙巻煙草でなく煙管を用いる刻み煙草を嗜む人を直で初めて見た。
 幼い頃に見たような見ないような、でもそれはいわゆる時代劇ではなかったかと思うような曖昧な記憶しかないので妙な感動をしてしまったものである。
 兎に角、この人は何に見えるかを聞きたかっただけかと、意識を夕食に向けた瞬間。
 プカリと輪になった煙を桜が崩した。
 ビンゴ。
 碌でもないことがたった今、決定した。
「おまえさま、気付かない振りをなさるだなんて。相変わらずつれないこと」
 脳内に響くような、耳の奥で聞こえてくるような声と言うのは得てして生きている人物が少ない。
 この事はここにお世話になっている間に私が学習したものであり、
「その娘御は手前をちゃんと認めなすったのに」
 自分の手に負えることではないと言うことも学習した次第である。
 人間、痛い思いをせねば学べないと言うのは少々辛いものであるが、多くは語るまい。
「ふふ、目も合わせてくださらないの? 椛さん」
 ……驚いた。
 アキさんは椛と言うのか。
「今日の夕飯はなんだい?」
 全く眼中にないのだろう。
 見事なマイペースっぷりだ。
「今夜はカレーです」
 私もアキさんに合わせる。
「そう。キミのカレーは絶品だからね。楽しみだ」
 文庫から目をこちらに向けてアキさんは笑った。
「あらまあ。椛さん、ひどいわ」
 ……木にヤキモチ妬かれても困るのだが。
 まあ、手に負えずとも橋渡し的な何かくらいは私にもできるので。
「……ところで。わたくし我が身が可愛いので何とかしてくれませんか」
「気にしなければいいんじゃないか?」
「そう言う問題でしょうか」
 違う? と言わんばかりに首をかしげるのは止めてもらいたい。
 何人たりとも用がなければ訪ねて来ることはないのだから。
 首が傾げたまま、三回ほど瞬きをしたアキさんはその格好のまま桜の木に顔を向けた。
「生憎だがアタシは椛と言う名ではないよ。どこかの誰かと勘違いしてないか?」
「あらいやだわ、面白くない冗談。そんなことに意味などないのに」
 くすくすと桜は面白そうに笑った。
「からかってばかりでは怒られてしまうわね」
 そして居住まいを正した桜は
「此度、手前は上がることになりましたゆえ、ご挨拶に伺いました。長きに渡り手前に加護を頂戴いたしましたこと、誠に御礼申し上げます。おまえさまをこうして拝顔しますのもこれが最後になりますゆえ先程の戯れ、お許しくださいませ」
 口上を述べ、私の目には次の瞬間、桜の名に恥じない美しい老女がそれはそれは美しい一礼をした。
 ……おー、みらくる。
 私の目はいまだかつてこの様にものを映したことがなかったので迂闊にも瞬きをしてしまった。
 閉じた瞼が開いて、その一瞬の間に残念なことに老女どころか桜も姿を消していた。
 うん、桜の木のお辞儀と言うのも見てみたかった気もするが、それはそれで怖いので良しとする。
「……お疲れ様」
 労いなのか功わりなのか。
 そう呟いた、アキさんの首は斜め四十五度に傾いたままだった。
「来年はこの庭でお花見が出来ないねえ」
「そうなのですか?」
「うん」
「先程、わたくし美しい方を見た気がするのですが?」
「おや。木のお辞儀ってどんな風に見えるのか教えてもらおうと思ったのに」
 拍子抜けだ、と言わんばかりの顔に脱力感が襲って来た気がするが気のせい。
 そんなことよりアキさんの目には最初からあの老女が見えていたことになり、彼女の目的を知っていた事になる。
 いつも後で気付く。
 この人の変な意地の張り方と優しさを。

 私が家事をするこの家の主人は不思議なことに関わりをもつ人である。


作品名:merry 作家名:おもかぴえろ