桜のころ
午前十時頃、目が覚めた。そのまま三十分くらい起きずにベッドの中でゴロゴロしていた。私はこんな風に過ごす時間が好きなのかも知れない。そんなぐうたらな自分を認識した後、意識してベッドから転がり落ちた。想像くらいの衝撃を感じて目を覚ます。よし、と、急に張り切りだしベッドに足を掛け、腹筋を三十回した。忙しくない朝の日課である。春休みになってからは、朝晩とやっている。目標は連続百回。
起き上がり、パソコンの電源を入れて部屋を出た。レンジで牛乳をチンする。それを飲みながら、部屋に戻りメールをチェックする。彼からメールが来ていた。
『川窪美穂様。初めてメールします。岡馬秀之です。
昨日は色々、お話できて楽しかったです。それは正直な所、思いがけないことでした。
それは、あなたがキレイだからかもしれない。いきなりこんな事を書いて変な奴と思われるかもしれませんが、素直なメールを書いてみたい。
恋をしたくない訳じゃないけど、今はちょっとっていう部分があって、それをあなたと会う前日になんかも友達と話したりしてて。なのに、あなたと会っていきなりそれが覆されたのは、やっぱりあなたがキレイで。そんなだから、喫茶店であなたに気に入られようとしてる自分がちょっと滑稽だったりもしたんだけど。つまり、恋なんてなんてと嘆いてる奴でも、その渦中に放りこむくらいのあなたは美貌の持ち主だってことじゃないかな。褒めすぎかな?でも、あなたに対して思うことはキレイだなぁって事なんだ。ボクの書いた駄文が読まれてたと聞いても、そんなの取り繕う気も失せるくらい。素っていうか、自然っていうか、ナチュラルっていうか。あの駄文も、エレベーターでのすれ違いも、喫茶店での会話も、このメールも、とにかくボクです。だからなに?って思うかもしれないけど、駆け引きみたいなの無しで書いてみた。読み返さないでこのまま送ります。』
こんなメールが届いた。
要するに、私に恋をしたって事かな。『私は、あなたを好きになりたい』とそれだけ書いて返信した。
夜に、また彼からのメールが届いた。
『あなたは恋がしたいの?』
そうかも知れない。私は恋がしたいのか知れない。高校時代、抑制していたものを卒業した今、どこかに弾けさせたいのだ。
三月十五日。金曜日。
春休みももう二週間経つんだな、と飼い犬のウニと散歩の最中に唐突に思った。
日々が過ぎていく。淡々と。
私はこの休みの間、腹筋くらいしかしていない。あとは犬の散歩。まったく。昨日はホワイトデーだったのか、なんて今気づいた振りでもしたくなる。
ネットには日記を公開してる人が沢山いる。それも面白おかしく。良くも毎日書くことがあるなぁなんて関心もするよ、こうも何もない日常が続く私には。
毎日散歩のコースが同じ道ばかりだから退屈なんじゃないかと思えて、ちょっと遠くまで行ってみようという気持ちになった。それがウニにも伝わったのか、いつもとは違う道を歩き出したら、私を引っ張るように前を歩き出した。しっぽを振っている。変化は時にモチベーションをあげてもくれるんだ。
そして、私はいつかの公園まで歩いた。来て見たくなったんだ。まだ寒さも残る公園にはさすがに誰もいなかった。寂しく思えた。自販機でお茶を買おうと硬貨を入れ、ボタンを押そうとした時、視界に入ったココアが無性においしそうに感じられて、思わずそれを押してしまった。出てきたそのココアの温かさを確かめようとするとピロピロと鳴り出した。当たり付きの自販機だった、と頭を過ぎるのと同じくらいにピーと鳴り出した。まさか当たったの?確認の意味でまたココアのボタンを押すとゴトンともう一缶が受け口に出た。これってラッキーなんじゃない。でも冷静に考えるとココア二つも飲めないことに気づく。それでも何だか日常のちょっとした嬉しい事には違いないのだからと私はコートのポケットに入れた。
ベンチに座ってココアを飲みながら、今のこの事を秀之君へのメールに書いてみようかなぁなんて考えて笑みが出た。
恋がしたいのか。それは違うとは言わない。でも、それだけではない。私はもっと誰かと関わりを持ちたいんだ。深く付き合いたい。私を知ってほしい。あなたを知りたい。考え方。感じ方。なぜそう思うのか。教えて。私にも聞いて。そう。正面から向き合って話がしたいんだ。
秀之君に急にまた会いたくなった。
三月二十八日。木曜日。
私は電車に乗っていた。
今度の目的は秀之君会うためだ。誰にも言ってない。秀之君にも。電話やメールでも今日行くって事は秘密にしておいた。急に行って彼を驚かせたいんだ。
午後の三時頃駅に着き、私は意気揚々と歩いた。
マンションの前に着き、一呼吸付いてから彼の家の番号を押した。応対に出たのはいずみちゃんであった。
「あ、この前のお姉ちゃん」
「久しぶりだね」
いずみちゃんの声は弾んでいた。
「どうしたの?」
「うん。お兄さんいる?」
「お兄ちゃん?」
「うん。いる?」
いずみちゃんから少しの戸惑いが感じ取れた。そりゃそうだ。
「あ、今日出かけてるんだ。」
「え、そうなんだ」
「うん」
「すぐには戻らない?」
「うん。多分中学のクラス会だって言ってた」
「そっかぁ。場所とか判らないかな?」
「んっと、ちょっと待ってて」
「うん」
いずみちゃんは私の想いを察してくれたようにも思えた。感受性の強いコなんだ。
少しして、マンションの入り口からいずみちゃんが出てきた。
「これ、場所が書いてある。駅前のね、反対側にちょっと歩いた所にあるお好み焼屋さん」
「ありがとう」
「ううん。いいよ、このくらい」
いずみちゃんからその地図の書いてある用紙を受け取り、その場所に向かった。
駅を過ぎ少し歩くとそのお好み焼屋さんはすぐに見つかった。店の前で貸切でない事を確かめ、中へと入った。
「いらっしゃい」
店員と目が合う。
「クラス会は?」
「あ、はい。二階のお座敷です」
店員は階段を手のひらで示した。階段を登るときはさすがに緊張した。一段一段事にドキドキが増す感じだ。二階に着く。靴を脱いで上がる。廊下で区切りお座敷が左右に2つに分かれている。どちらからも楽しそうな会話をする声が聞こえる。腰くらいの高さまでガラスで、その上は障子になっている。屈まなくては中のようすは伺えない。私には関係ないクラス会である。結構マズイことかも知れないなんて不安に襲われ、とりあえず携帯で秀之に連絡でもしてからと思った瞬間。
「あれ、誰だっけ?」
知らない男性が部屋から出てきて声を掛けた。
「あの、えっと秀之君って」
「え?岡馬秀之のこと?」
「ええ、はい」
その男性の目が秀之を探す。私もその開いた隙間から中のようすを覗く。
秀之君はいた。隣には女の子がいた。その光景を見ただけで真っ白になった。
「あ、秀之、ちょっと」
秀之君がこっちを向く。目が合う。驚く彼。私は居た堪れなくなり、その場を走り出して逃げた。靴を拾い、走って店を飛び出した。
涙が突き上げた。
駅のすぐ前には小さな公園があった。私はそこのベンチに座り込んだ。