桜のころ
年齢を聞いて、なんとなく、気になりだして机あたりを見たりする。雑誌やCDが置いてある。その中に宇多田ヒカルのCDを見つける。
「ヒッキー好きなのはお兄ちゃんの影響かな?」
「え? うん、まぁそうかも」
いずみちゃんはパソコンに夢中だ。私はCDを手に取って見ようと触ったら、雑誌が机から崩れ落ちた。
「あ、ごめん」
「いいよ、散らかしてるのが悪いんだよ」
落ちたものを拾おうとしたら、その中にノートがあった。チラッと開いてみた。日記だろうか。こんな事が書かれていた。
精神の不安定なものが失望したときに形成される人格とは、こんなものだ。それは自分と同じ境遇の者さえも否定する、何も希望を見出せない者。水溜りに張った氷のように世間から割られてしまうんだ。
彼をあなたは知っているか。知っていると言っても、彼はそんな振りをしているだけに過ぎない。彼はいつも裏切るのだ。たとえ、避けられようとも、嫌われようとも。彼はそのことにだけ、神経を使い、その事にしか脳の無い男のように、ただひたすらに一生懸命裏切るのだ。それによってどんな答えが出ようとも、その行為をやめることはない。彼の行方は?
自分がとても馬鹿らしくなった。とても愚かだ。とても弱い人間だ。周りからイジメられている人間に対しても恐怖する。自分もそうなる恐怖に襲われる。せめて、同情した立場を優位に立とうとする。なんて愚かで心の弱い人間なんだ。そんな自分が陽気になればなるほど、回りは空回りする。
誰か僕を好きだと言ってくれ。ならば、僕はすべてをあなたに捧ぐ。
僕の尊敬する人よ。僕に命令を下さい。きっちりやり遂げます。例えできなくても、精一杯努力します。だから、お願いします。命令を下さい。
まだまだ、続くようだったが、私はそこまで読んでノートを閉じた。悲劇を気取って走り書き。こういうのってなんだっけ。どっかで読んだことのあるような、誰かを真似た様な。とにかく、いい気持ちがしなかった。
「いずみちゃん、お兄ちゃんのこと好き?」
「うん、まぁ。優しいし」
ふうん。こんな事書く人でも妹になら優しくするのか。
私は一目、顔でも見たくなり、その後、いずみちゃんとパソコンで遊んだが、結局、兄は帰ってこず、私のお姉ちゃんから帰宅した電話があり、いずみちゃんにお礼を言い、部屋を後にした。その時、エレベーターで入れ違いになった男性がいた。十八歳に見える。もしかしたらと、思った。
姉の家に着くとすき焼きのいい匂いがした。
「美穂が来るって言うからね、奮発しちゃった」
姉は、はしゃいで料理をしていた。羨ましい気持ちになり、それを隠したくて、ベランダに出て景色を眺めたりした。
「私は誰? 誰なの? ねぇ、教えてよ」
そんな事呟いて、さっきのに影響されてるなぁなんて、笑った。
八時を過ぎて、お義兄さんの雅広さんが帰ってきて、夕食を食べた。その後、洋画を観た。姉の胎教なのかも知れない。私は映画の間中、すれ違った男性を思い出していた。もしかしたら、彼がいずみちゃんの兄かもしれない。あの階で降りるのだから、その可能性が高い。降りる彼と乗ろうとする私の目があった。彼は私をどう思ったろう。そんなこと考えたりしている。なぜだろう。彼の書き物を見たからだろうか。
和室に布団を敷いて、私は寝た。
眠りにつく間中も、考えていた。明日、逢えるかな、と。実は、私は悪巧みをしたのだ。彼の部屋に携帯を忘れてきたのだ。姉から電話を受けたあと、そのまま、机の上に置き忘れてきたのだ。だから、明日取りに行かなければならない。彼に逢えるかな。私を見たらどんな反応をするだろう。嫉妬されるほどの美貌を誇る私を見て、彼はどんな態度を取るのだろう。最後はほくそ笑み、私は眠りに落ちた。
三月七日。木曜日。
午前十一時。
この時間ならいるとしたら、休みである彼だけのはずである。姉の家のインターホンから、彼の家へ連絡する。案の定、応対に出たのは彼だった。
「何か御用でしょうか?」
冷静に努めた声が返ってきた。
「あの、川窪と言います。昨日、携帯をそちらに忘れたんです」
「え?」
「これから伺っていいですか?」
「えっと、どういうことですか?」
「いずみちゃんと知り合いなんです。それで昨日一緒に遊んで頂いて」
「え、あ、はい」
玄関のドアを開けたのは昨日見かけた彼だった。私を見て、動揺したような、してないような。
「携帯どこに置いたの?」
「あなたの部屋だと思う」
そう告げると、さすがに彼はあわてた様子で探しに行った。机の上とは言わなかった。彼には見つけられず、戻ってきた。
「どこにあるか見つからないんだけど」
「探してもいい?」
「うん」
もう、意外と普通みたいだ。状況の見込めたのかもしれない。私は彼の部屋に入り携帯を見つけた。
「いずみちゃんとここで、パソコンしたんだ」
「そっか」
「叱らないでね?」
「まぁ、いつものことだから」
その言い方に兄妹だなって感じだ。
「あなたの名前は?」
私は聞く。
「秀之」
「私は川窪美穂。同い年なんだよ、私たち」
「そうなんだ」
私は一方的に話している。
「時間ある?」
「時間ならあるけど」
彼は目も合わせずに答えた。
私たち二人は近くにある喫茶店に行った。
私は色々、話した。指定校推薦で年内に大学合格を決めていた事。意地になって勉強したから。意地になる理由。それは高一の時、同性に虐げられていたことが影響しているのかもしれない、と。2年生になり、クラス替えによって、友達はできたが、私はどこかで怯えていた、と。それは三年生のなっても続き、結局、卒業するまで続いた、と。
彼も少し話してくれた。自分も推薦で決めたんだ、と。だけど、結構決まった後も悩んだ、と。ほんとは、もっと別の学校行きたかったんだ、と。それは、東京じゃなく、どこか、北海道と京都とか、海外とかもっと、違うところ。でもやっぱ、東京にある大学に通う、と。
「あなたの机の上にあったノートを見たの」
会話の切れ目で私は言った。彼は黙った。
「怒った?」
「ううん。オレなんてさ、君から比べたら、全然耐えるような苦しみなんて味わってないのにさ。あんなのこと書いて。恥ずかしいな」
「ううん。きっとそういう人の方が書けると思うよ。私、中学時代は付けてた日記も高一から、止まったまま」
そこで会話も止まり、二人、黙った。
彼は駅まで送ってくれた。別れ際に私は連絡先を渡した。
「メールでもしよ。PC推奨くらいの長文の」
「うん」
「いずみちゃんによろしく」
改札を通って、振り向いて、彼に手を振った。彼は手を上げて返してくれた。
地元に帰った私は駅ビルで日記帳を買った。日記でもまた、付けてみよう。昨日のこと。今日のこと。
三月九日。土曜日。