桜のころ
三月六日。水曜日。
電車に乗っていた。ぼんやりと。
姉の家に遊びに行こうと決めたのは昨日の夜だった。母と姉の電話での話し声を聞いていた。妊娠中の色々を姉は聞いてもらいたいようだった。母はうんうんと頷いている。しばらくして電話を変わってもらい、「明日遊び行っていい?」と聞いたらOKしてくれた。泊まりで。春休みだもんね。出掛けてみよう。
そんな昨日とはウラハラに、電車の窓の流れる見慣れない景色に興味は沸かなかった。
私をそうさせるのは、一日に高校を卒業したことだ。なんとない心に空いた寂しさとどこかでホッとした部分の両方。
揺れる電車の中、シートに座る私は目を閉じる。
まぶたに浮かぶイメージ。
裸の私にたくさんの縄が絡み付いている。それらがスルスルとほどけてゆく。どんどん。どんどん。最後の一本が私から解ける。すると、私は落ちてゆく。水の中に。ドボンと。ある程度沈んだら浮力が生じて私は水面へ。そして大きく深呼吸。
「うわぁ細い。私のそばに来ないでくれる?」
高校に入ってしばらくしての体育の授業。その日は男子も体育館。その始まる前の整列の時、わたしはクラスメイトのある女子からそう言われた。その女子は思ったことをズゲズゲにいう正確で、女子の間のリーダー的存在になっていた。
「うわぁ細い。私のそばに来ないでくれる?」
その発言に周りは同調し、それまでは密かな羨望で見られ、私自身も密かに誇っていたスタイルの良さは、虐げられ、クラスで一人浮いた存在にさせる、負の作用をもたらすものとなった。
「うわぁ細い。私のそばに来ないでくれる?」
高校時代。私は何度も頭でリフレインした。その度ごとに、私の素肌にシュと縄が絡みつき、きつく縛り上げるような感覚が襲った。
夏の日。水泳の授業が終わり更衣室に戻ったら私の下着がなくなっていた。パッと周りにいるクラスメイトの顔を見回しても誰も目を合わせない。
その後の古文の時間。クラスでは紙切れが回る。ヒソヒソ。紙切れを読んだ男子生徒たちがそれぞれのやり方で私を見る。ある生徒は舐めるように。ある生徒は恐々と。ある生徒はおどおど。ある生徒は興味津々に。読まなくたって書いてあることは想像できた。段々ざわつきだす。ガキばっか。目敏い女教師はその回る紙切れに気づきある生徒のところで取り上げた。そしていきなり読み上げた。
「カワクボミホは今ノーパンノーブラ」
クラス中の瞳が私に集まる。
「こんな悪ふざけやめなさい!」
その女教師は私のリアクションも待たずにピシャリとそう言い、紙切れをゴミ箱に捨てた。
高校一年の間、私は耐えるだけだった。それ以外、できなかった。
電車が駅に着く。私は目を開き確認する。降りる駅は次だ。
また目を閉じた。
何度思い出すのだろう。これからも事あるごとに思い出すのだろうか。
高一の秋。休みの日の午後に私は犬を連れて遠くまで歩いた。来たことのない公園に着いて休んでいたら、スケボーをするクラスメイトの男子にばったりあった。思いがけず目を逸らした私に声を掛けてきた。
「あれ、カワクボさんって家この辺なの?」
「ううん。ちょっと遠い」
「オレんちもちょっと遠いんだ」
「うん」
「しっかし、カワクボさんってカワイイなぁ」
「え?」
「クラスの男子はさ、ホントは皆カワクボさんと話しとかしたいんだよ」
そういうと、スケボーを走らせて行った。その後ろ姿が印象深く残っている。
「カワクボさんも飲みなよ」
その出来事から何日かした放課後。文化祭の準備でクラスが忙しい中、ベランダにいた私に、ある男子生徒が缶コーラをくれた。やり取りはそれだけだった。だけど、今、そんな思い出がふっと蘇ってきた。私は嬉しかったんだ。
目的地の駅に着く。再び目を開けた私は少し涙ぐんでいた。それを気にも掛けず拭って電車を降りた。
駅を出た私は着いた事を知らせようと姉の携帯に電話をした。けど、繋がらなかった。買い物だ。今、車でも運転している最中なんだ、と勝手に決めつけ、私は姉のマンションに向かった。
元々散歩は嫌いじゃない。それに加え、知らない街だからなのか、電車に乗っているときの落ち込みは消えて、地面から少し足が宙に浮いた感覚を楽しんで歩いた。
似ているマンションが近くに立ち並ぶから迷うかも知れないよと言われた通り、迷った。それも計算の内と、私は通りがかったランドセルを背負った女の子に話しかけた。迷ったら誰かに聞く。そしてたどり着く。私はそうしようと昨日から考えてきたんだ。
「あ、これウチのマンションと同じトコだよ」
「え?ホントに?」
「うん」
想像していた以上の答えをその女の子は与えてくれた。
「じゃあ、一緒に連れてってくれたりすると助かるんだけど?」
「うん、いいよ」
私は、その女の子と歩き出した。すぐにそのコが手を繋いできた。こうやって、案内してくれてるんだ。
「お名前は?」
「岡馬いずみ。お姉ちゃんは?」
「川窪美穂。よろしくネ」
そう言った私にいずみちゃんは笑って応えてくれた。
「小学何年生?」
「六年」
「じゃあもうすぐ卒業だよね。私もね、一日に」
その時、私の携帯が鳴った。姉からだった。
「うん、もう駅出た。今向かってるとこ。うん」
通話中、いずみちゃんはキョトンとしていた。
「もうすぐ着くかな?」
いずみちゃんに話しかけた。
「うん、もうすぐそこだよ」
と、ちょっと先の建物を指した。
「あ、もう着くよ。うん分かった、うん。じゃぁまた、あとで」
携帯を切り、少し先を歩いていたいずみちゃんに駆け寄った。
「案内、ありがとう」
「ううん」
「もう一つ聞いていい?」
「なに?」
「ここら辺で三十分くらい時間つぶす所ないかな?」
「時間?」
「うん。お姉ちゃん帰ってくるのに、まだ時間かかるみたいで」
「じゃぁ、ウチ来る?」
「え?いいの?」
「うん」
そう言う訳で私は、いずみちゃんの家にお邪魔することになった。
「どうせ今の時間、ウチ誰もいないし」
ぽつりとエレベーター内で呟いたいずみちゃんが印象的だった。もしかしたら、寂しいのかな、などと考えたが、いずみちゃんは家の鍵を開けて中に入ると、鼻歌なんか歌い出した。
「宇多田ヒカル好きなの?」
「うん、まぁ。あ、そだ、パソコンできる?」
「え?」
「お兄ちゃんの部屋にパソコンあるんだ。やろうよ」
と、いずみちゃんはそのお兄ちゃんの部屋に行ってしまうので、私も付いて行く。
「勝手に入っていいの?」
「うん、どうせ、今日、夜まで帰って来ないの知ってるし」
「そう」
いずみちゃんはパソコンの電源を入れ、立ち上がると慣れた感じでブラウザを開きだした。
その横にいる私はいずみちゃんのお兄ちゃんの部屋を見渡したりした。乱雑に散らかっている。でも、本なんかは、キレイに並べてある。そんな風に感じた後、そういえば、男の人の部屋なんて入ったの初めてかもと思った。
「お兄ちゃんっていくつ?」
「十八。昨日高校の卒業式だったんだよ」
パソコンに向かういずみちゃんが答える。
十八か。私と同じだ。