わたあめ
2月
山田君が好きだ。
…と、気が付いたのは昨日のことだった。
もう遅い。
大好きだ。
私はよく学校帰りに優美香と近所の本屋さんに寄る。でも、昨日はたまたま少し先のさびれた古本屋さんに寄ってみた。
何故かって言えば単純にお金がなかったからである。運命って案外くだらないことでくるくる変わるもんだ。 ともかく、そこに山田君がいた。 そう、山田君がいたのである。
「あ、佐菜、山田君だよ」と、最初に優美香が声を上げた。
その時彼女は、わざわざ「佐菜」と言った。それは、未だ恋に気付かなかい段階の私ですら少し違和感を感じる言い方だった。
つまりはちょっとわざとらしい感じのニュアンス。優美香はとても親切な女の子なのである。
古本屋さんは木造だ。木と、古い書物と、たくさん積もった時間と埃の匂い。 奥のほうにはやっぱり埃の被っている掛け時計が動いていた。 店主のおじいさん同様古くさくて可愛らしい。 女子高生のおじさんに対する“可愛い”という感覚は結構な褒め言葉なのだが、大抵の大人は顔をしかめる。でも他人が言われているのを見ると眉をしかめていても、いざ言われると喜ぶ人が多いのも事実だ。なんて面倒くさい大人たち。だから私たちはめげずに可愛いを連呼する。
とにもかくにもそんな昭和っぽい本屋さんに、山田君はぴったりだった。
かちりと填められた綺麗な作品みたいに。
「山田君!!」 優美香は私を横目でちらっと見てから山田君に呼びかけた。
山田君は本から少し顔をあげてこちらを確認する。「…なんですか?」
なんですか?って。ただの挨拶だってば。 私は心の中で軽く苦笑した。
すらっと伸びた手足にシンプルで無駄のない顔立ち。白い肌。整えすぎない黒髪。 正しい姿勢でちょうどよく着崩した制服。
そして、冴えない眼鏡がまた冴える。
今日でこそはそんなこと言えるけど、昨日までは少し心臓がちくりとしただけだった。
意識「している」と「していない」がこんなに違うこととは知らなかった。
つまり私はもう言いわけが通用しない段階にまで陥ってしまっていた。
山田君は「カラスのパンやさん」と「人間失格」を小脇に抱え、「彼氏のための肉料理?胃袋ゲットはラブゲット?」を読んでいた。
私は噂通りの変人ぶりを少し垣間見た気がして首をかしげた。
「山田君料理つくんのー?ちょおいい旦那じゃん」
優美香は気をとりなおして明るく話しかけている。 彼女は派手な見た目のわりに根は真面目で、成績もいつも一定の位置をキープしていた。 そして私なぞとは違い気さくな娘なのだ。
そんな素敵な彼女を相手にのほほんと構える彼に少しきゅんとしていた私。…気付けって話だ。
「最近の男の子は料理もしますよ」 山田君は薄く微笑む。
「へー!すごーい。私なんてラーメンくらいしかつくれないよ。あっでも佐菜は料理上手いよねっ」
そんな急にふられても…。なんで私? 私しかいないけど。私はぶつぶつまるで意味のない反抗を心の中で試みる。
何も言う気はないのだから、こんな質問をした彼女を責める権利も私にはないのだ。
「父子家庭だからねー、しかたなくさ」
そう答えた瞬間、山田君はなぜか一瞬停止した。
でもまたすぐにいつもののほほんとした空気に戻った。 こんな時、自分のこういうことへの敏感さが嫌になる。
(…なんかまずいこと言ったかな?でもそんな対したことは言ってないと思うんだけど…。てか気を使われるならまだしも)
黒い雲がもくもく登場。
ああ、だめだ。わかってる。
簡単に人の闇に気付いてしまう自分が。とらわれそうになる自分が。
そして、いつもよりその気持ちは大きかった。
<<ヤマダクンニキラワレタクナイ >>
私は、唐突に浮かんだ、自分のその思い付きに驚愕した。
(なんだろう…)
「山田君今度なんかうちらに作ってきてよー」
「材料費と人件費持参ならいいですよ。」
なんにも気付かない優美香がケラケラと笑っている。
私は茫然と、微笑む山田君を見つめる。
(なんだろう… )(もしかして)(もしかして)(いや、ありえない)(でも私は)(他人のことなんて)(別に)(じゃあ)(じゃあやっぱり)(私は)(私は)(私は)
(私は? )
「…んなまさか」
「なに?佐菜。なにか言った?」
私は優美香にかぶりを振った。
山田君のほうを出来るだけ見ないようにしながら。
「え?気付いてなかったの?」
私の予想では否定するはずだった我友人は、そのありえない考えをあっさり肯定してくれた。その可能性に思いたってからわずか30分後のことである。
(あぁ…そうなのか)
そうだったのか、と、私は深くため息をついた。
紫色の雲が薄くかかっている。 綺麗なマーブル色のカクテルみたいだ。
優美香は、黙りこんだ私を困ったような喜んでいるような変な微笑みでのぞきこんだ。私はこっそり心のなかで優美香にお礼をしていた。
ありがとう。
教えてくれてありがとう。
一人で生きていきたいくせに、一人じゃなんにも出来ない人間なんだ。私は。それは多分最悪すぎる家庭環境に起因している。
って、言えたら簡単なのだけど。
他人に家庭環境を指摘されると、冷静な程激怒する私は、自分に対しては簡単に家庭環境を言いわけにしてしまう。そのくせ、自分に激怒することはないのだ。
だから私はただひたすらに滑らかで温かく甘い発見を考えることに身を任せていた。随分と楽だから。自分勝手で。
(私は山田君が好きなんだなぁ…)
私は誰かを愛すことが出来るのだなぁ。
その囁きはなんとも甘くとろけるような響きがした。
ふいに、ありきたりで新鮮なことを思い出す。
明日は2月14日だった。今から作って間に合うのだろうか?
あいつが帰ってくるまえに。
私が黒くなる前に。
甘やかな私のままで甘やかな菓子を作ろう。
私はぴょんとスキップした。まるで私じゃないみたいに。
…それが昨日の私である。能天気なふりをしていた、能天気な私である。