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冬野すいみ
冬野すいみ
novelistID. 21783
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落ちる

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<出会い>



赤い空に、ただ、落ちていく




私と赤音(あかね)は出会った。

その日は高校の入学式で、私は着慣れない新しい制服を着て帰り道を一人歩いていた。毎年少しずつ成長していくらしい私は、自分にすら置いてきぼりにされたみたいで、変な違和感を感じる。今日から高校生になった。

私は生きていけるのかな。
私の世界は生きていけるのかな。

壊れてしまえば、その世界は綺麗なのかな。

私はぼんやりとしながら見慣れない道を歩いていた。そのとき、道の端の草はらに木が立っているのが見えた。大きな木だった。なぜか私はその存在に少し怯える。
そしてその木の下に人が座っているのが見えた。なぜかその人は世界から浮いているように私には思えた。近づくにつれその人、少女、女性が私と同じ制服を着ていることに気付く。
春の緑の中、その人は少し顔をうつむき加減にして、そこにいた。なんだか不思議な人だなと思う。どこか色がない。
それに具合が悪いのかもしれない…、その人の姿が判別できる距離にきて私はようやくそのことに思い当たった。
私は近づいた。
その人に近づいた。

「大丈夫ですか」
私は木の根元に座り込むその人に声をかけた。顔色は悪く、青白い。まるで生きていないようだ。固く閉じられた瞼が震えている。呼吸も少し苦しそうに見える。
そして、その人は瞳を静かに開くとこちらをちらりと見た。私はその人が生きているのが不思議に思え、動く人形のように感じた。
深い黒い瞳。それは深淵の宇宙。

「…あなた誰?」
小さな声でその人は言った。不思議な音色だった。その目は何の色も映さない。その視線は静かで強く、私を見ていた。私は射抜かれたように目をそらせない。

私はなぜか答える声を見失ってしまったようにただじっとしていた。深い瞳、どこか遠くを見ているような不思議な瞳。私はその瞳の見る世界を知りたいなとぼんやりした頭で思う。しばらくすると彼女は私を見たまま言った。

「…ああ、平気。軽い貧血だから。すぐに元に戻るわ。なんともないんだ」
そう言って視線を下へ落とした。彼女のその言葉は私ではなく自分に向けられたひとり言のようでもあった。人形のような彼女の肌は相変わらず青白くて、私にはそれがとても自然であるかのように見えた。けれど、同時にとても痛ましく感じ、その頬が少しでも生きた色になって欲しいと思う。
私はふと思い出し、鞄の中からペットボトルの水を取りだした。
「飲みますか? 新しいのですから…」
私は水を彼女へ差し出した。この水が彼女を生かせばいいのにな。

彼女は少し思案するように黙った後、私の方へ手を伸ばした。すらりと細長い青白い指先。私へと向けられた指先。
彼女は水を受け取ると、一口、飲んだ。水が彼女の喉を通り潤していく。私はその様子を見ていた。ただ、見ていた。

なんだか浮かんでいるよう。この世は絵の具のように溶かされて、滲んで淡く浮かび上がる。私はその世界に染まり消えゆくのだ。不思議な浮遊感を感じた。現実感がない夢幻のようだ。

春の日差し。穏やかで、けれど、それにしては今日は暑い。微かに吹いた風が彼女のそばの木の緑を揺らす。その音、風の感触でようやく息ができるように思う。私はちゃんと生きている。彼女はちゃんと生きている?

もう一度彼女の方を見る。ぼんやりとした様子で草の上に座る彼女の肌はさっきほど青白くは見えなかった。私の目の錯覚かもしれないけれど。それでも、彼女は生きている。
ほぅ、と私の唇から安堵の息がもれる。体の力が抜けていくみたいだ。変なの、私は安心している。そして、怯えていたことに気付く。彼女の肌の青白さに、彼女の命の希薄さに。

「ありがとう」
そう言って彼女は私に水を返した。そして少しだけ笑った。私もつられて笑う。けれど上手く笑顔の形に出来ていたかどうかは分からない。私は笑うことが苦手だったから。歪に唇をゆがめているような顔。心の伴わないアンバランスな表情は自分でも奇妙に感じていた。

彼女の笑顔は儚くて、そして暗く優しいと思った。どこか怖くて、けれど惹かれるその笑顔。私はその笑顔をこの瞳に焼きつけておこうと思った。決して忘れることのないように、刻みつける。

「私は赤音。赤い、音って書くの。赤いんだよ」
ふ、と小さくわらう彼女。私は赤い色は彼女に似合いの美しい色だと感じた。そして、その悲しい色は命の色でもあるのだから、彼女の命は赤く燃えていると思えて少し安心できた。彼女の音は赤い命のように私の心に沁みていく。深紅の薔薇や、燃える夕陽のようでもあるなと思った。

「赤音」
私はその音を繰り返す。とても大切な音のようで。その言葉が私の口から零れているのがとても不思議で、嬉しかった。
「そう。赤音」
彼女は、赤音はもう一度私の目を見据えると、言った。
「あなたは?」
私? ……私は。私、私――。
咄嗟に私は私の名を思い出せなくなる。なぜだろう今初めて自分の名を訊かれたように感じた。なぜ思い出せないのだろう。じっと動かず何も言わないままの私。何か言わないと、気持ちは焦るのに金縛りにでもあったように動けない。

「おいで」
赤音は動かない私に呼びかける。私はその言葉に操られたようにふらふらと近づき、赤音の目の前に座り込んだ。
「ちょっとごめん」
そう言うと赤音は私の胸元のポケットから何かを抜き取った。私は浮ついた頭で考える、確かあれは学生証。赤音はそれを見ていた。そう今日貰ったばかりの新しい私の証明となる物。赤音の無表情な顔、白い肌、深い瞳。静かに私を見ている。しばらくして赤音は呼んだ。

「鈴」

すず。鈴。
ああ、そうだ。私は確かそういう名をしていた。なぜ忘れていたんだろう。けれど私は生まれて初めて名を与えられたような気持ちがした。赤音の声で。その赤い、音で。

作品名:落ちる 作家名:冬野すいみ