珈琲日和 その16
いじけたような顔になったシゲさんにそう言い残すと、僕は彼にレモンスカッシュを運びました。グラスを彼の側に置いたのが合図だったかのように、彼はようやくぼんやりとメニューを通して何処か違う世界を見ていたみたいな焦点を現実世界に合わせたようで、始めに爽やかに気泡の上がるレモンスカッシュを見、次に僕の顔を見て微かに笑いました。その笑顔には、以前の彼の活気は何処にも見られませんでした。曲がトロイメライに変わりました。けれど、彼の耳にはこの世界の音楽は疎か僕の声すらも届いていないのではと思いました。
彼は、レモンスカッシュを、はにかむようにしてゆっくりと味わうと、長居する事なく、そそくさと帰ってしまいます。以前は暗闇の中を切り進むようにして軽快に消えていった彼の後ろ姿が、今は眩しい初夏の日差しの中に溶けるように頼りなげに消えていくのを、シゲさんがレモンスカッシュに舌鼓を打ちながら歌でもうたうように話をする横で、ぼんやりと見送りながら僕の心には何故か蟠りが出来ていました。
そんな僕とは裏腹に、さっきまで幽霊だなんだと怯えていたシゲさんが呑気な調子で言いました。
「なぁ、マスターどうでもいいけど、どうして今日は歯医者みたいな音楽ばっかかけてんの? なんかこーいうの聴いてると、俺の古い虫歯が痛んでくるから他のやつにしてくんない?」
「それはきっと、その人に自分の何かを重ね合わせているからだと思うわ」
今時珍しい濃い塗りの煙管を燻らせて、それまで黙って僕の話を聞いていた美和子さんが、ごくゆっくりと口を開きました。
「自分の何か‥‥ ですか」
意外な盲点を突かれた僕は返答に困ってしまい、美和子さんが発した言葉を口の中で租借するしか出来なかったのです。
「その人、失業したんでしょ。で、今はあながち溜まった有給消化中の期間ってとこね。だから、焦って仕事を探す訳でもなく、かといってやる事もない。だから、なんとなく毎日来るんでしょ。マスターはそのお客さんが、なにか目障りなの?」
「え? とんでもない!どうして僕が、彼を目障りだなんて思わなきゃいけないんですか。」
「あら、違うの? なんだか今のマスターの話す様子から、なんだか、その人が本当は目障りだって思っているような感じがしたんだけど」
「いいえ。断固として、そんな事はありません」
僕は言い切りましたが、正直自信はありませんでした。見ず知らずのお客様に対して、そんな事を自分の意志だけで思えるものではないのは承知していますし、僕の喫茶店を通じて一期一会の出会いと別れを繰り返すお客様の人生に関わっているのですから、それ以上の詮索は野暮と言うもの。勿論、それに対しての自分の考え等不要なものです。けれど‥‥
「そう。じゃあ、何故わざわざ私のところに来たのかしら?」
「それは‥‥やはり同業者ですし、それに最近ご無沙汰していましたから。ご近所なので、たまにはと思って‥‥」
美和子さんの鋭いご指摘に、思わず適当な言葉が見つからず口籠ってしまいました。確かにそうなのです。いつもなら、樹里か渡部さんに真っ先に報告するなり話すなりするべき筈なのです。ところが、今回は何故か躊躇してしまったのです。その割に、なんだかよくわからないまま、自分で抱え込んでいる事がどうしても出来ない質なものですから、ふと美和子さんに会いに来てしまったのです。
「何か訳があって親しい人には相談出来ない内容だからこそ、私ぐらいの立ち位置が、適当だと思って、話してくれたんでしょう?」
「‥‥ええ。まぁ」
「うふふ。光栄だわ。マスターの秘密のベールの一枚の中身を、覗き見できるお相手に、ご指名されたなんて」
茶目っ気たっぷりで微笑む美和子さんは、ティファニーで朝食をのオードリーヘップバーンも真っ青な程美しく見えました。
「マスターは、お父様の事が嫌いだったんでしょ」
その花の莟のようにふっくらとした唇から紡ぎ出されるずばっと要点を突かれた言葉に、又しても僕はたじろぎました。
「ちょっと考えればわかるわ。それによく言われるんだけど、私は要点をまとめて、答えはさっさと導き出したい派なのよ。もし、マスターが望んだような受け答えじゃなかったら申し訳なんだけど。まぁ、それでも、敢えて私を選んだマスターの責任でもあるわよね」
「はぁ‥‥まぁ」
曖昧に答えながら、僕は、どうして僕の周りには、こう気の強い、主張のハッキリとした意思の強い女性が多いのだろうと不思議に思いました。美和子さんだけではなく、その娘の彩ちゃんも、樹里も、果ては常連さんに至るまで、強い女性が揃っているのです。よく、自分の母親に似たような恋人を作るなんて言いますが、僕の母親は控えめで、言いたい事すら言えず、いつも悔し涙を堪えて、じっと我慢しているような所謂典型的な日本人の昔の母親像そのものでした。僕は、母が本当はどうしたくて、なにを思っていたのかすら知る事は出来ませんでした。
母と別れたのが子どもの頃だったからというのもあるのかもしれませんが、僕の母に対しての印象は悲しく、思い出すだに切ないばかりのものでした。その母を更に追いつめていたのが父でした。
父は元は大企業に勤める重役でした。けれど、何かをした責任を負って解雇されたと母から聞いた事があります。息子の運動会にも誕生日も関係なく、一切休みも取らず、朝早く出て夜遅くに帰ってくるような仕事人間だったそうです。今なら、それが原因で夫婦仲が悪くなったりしそうなものですが、母が気丈で何処までも父を慕っていた為にそんな事にはならなかったようです。けれど、父が解雇された辺りからだった筈です。少しずつ僕たち家族の歯車が狂い出したのは。
溜まりに溜まった有給を消化する為に、父は宛もない毎日をただぼんやりと過ごしていました。それはそうです。今までは朝から晩までやらなくてはいけない仕事が山積みで父を待っていたのに、それがすっかりなくなって、目の前にぽっかりと口を空けているのは何も予定のない空白だけなのです。自分が動かずとも自然にやる事が発生していた事に慣れていた父は、まるで交通事故にでも遭って、記憶喪失になった人のように、ぼんやりとやる事もなくやる事を思いつく事も出来ないまま、来る日も来る日も、時々、求人雑誌等を捲りながら、ただ死んだ目をして時をやり過ごしていました。それからです。弱いからと言って滅多に口にしなかったお酒に手を付け始めたのは。大企業ではあんなに皆に慕われていたのに、次の仕事の宛てすらなく、もう歳だからと職業安定所に行っても断られる事の方が多かった重苦しいばかりの現実を逃避したかったのだと思います。
「会社では強かった父は、本当はただ弱いだけの人間だったんです」
「‥‥でも、この世に弱くない人間なんているのかしら?」