珈琲日和 その16
あ、また、いらっしゃっている‥‥僕がそう思うのと同時くらいに、シゲさんがこそっと小声で耳打ちしてきました。
「最近、あの客、毎日いるなぁ」
眉間にどっちつかずな皺を微かに寄せて、口角にサンドイッチの粕をくっつけたシゲさんは、視線は部屋の隅に、存在感薄く座っている男性を捉えたまま、まるで腹話術みたいに口をほぼ動かさず、なんとも神妙な感じに言ってきました。その、ある意味では器用とも言える様子が、店内に流れているアヴェマリアとやけにリンクして、あまりにおかしかったので、僕はシゲさんの言葉の内容はそっちのけで、まじまじとシゲさんを見つめてしまった程でした。
「毎っ回思うんだけんども、あの客、いつ入ってきたっけか? いっつも気付くと、あすこに座っててさ。なんかよぉ、幽霊みてぇで気味悪ぃな」
どうやら幽霊だとかの類いが苦手らしく、シゲさんは若干顔を引きつらせたまま、その陰の薄い男性を見極めようとでもしているのか、将又、恐いもの見たさで目が離せない興味本位なのか、やはり視線を男性にじっと向けたまま腹話術を続けました。僕は、どうしてシゲさんがいつものように大声で大胆に話さないのかが不思議でした。相手が幽霊だからでしょうか? 自分が話している事が聞こえたらマズいとでも思っているものか、それとも自分が話したのがバレない為なのでしょうか? まぁ、どちらにしても‥‥
「色々と膨らんで、盛り上がっている所に水を差すようですが、あの方はれっきとした人間です」
僕がそう返すと、途端にシゲさんは安心したように表情を崩しました。それからすぐに、なぁんだと言わんばかりに、全然怖がってなんかいなかったぜ、むしろそう思ってたからなみたいな余裕のある顔を作ってみせましたので、僕は思わず吹き出してしまいました。
「ちっ。なんでぇ。吹かなくたっていいじゃねぇか。失礼じゃねーか」
「はは‥申し訳ありません。正直、シゲさんが幽霊の類いが苦手だった事が、意外で‥‥」
「いいじゃねぇかよ。悪ぃのかよ。俺にだって、苦手なもんの5つや8つくらいあるんだよ。いっくら万能な人間だってな、苦手なもんくらいあるわな。かの最強と謳われた戦国武将の織田信長だってな、ピーマンが苦手だったんだ。人間なんてそんなもんだ。」
「いやいや。織田信長がピーマン嫌いって、それ嘘でしょ。あの時代に、ピーマンはポピュラー食材じゃない筈ですよ。いくら僕が歴史が不得意だからってそのくらいわかりますよ。あの方は以前から、何度かご来店頂いているんですよ」
「あり。そぉなの? 全然気付かなかったな。そりゃ失礼致しました」
「まぁ、気付かなくても仕方ありませんよ。あの方、以前は仕事帰りにお寄り頂いていたのか、いつも閉店間際に来店されてましたから」
僕はそう言いながら、壁際に寄りかかるようにして腰掛け、何処か魂の抜けかかっているような男性を徐に見遣りました。メニューを広げて眺めてはいますが、実際には眼球にただ映しているだけで何も思ってはいなさそうでした。その証拠に、シゲさんが耳打ちをし始めた頃から一点をぼんやり見つめているだけで、微動だにしていなかったのです。
「それはいいんだけど。いつもあんな調子なの?」
今度は興味本位に手を添えて、小声で訪ねてきたシゲさんは、勢い余って、思わず飲みかけのカフェオレを倒しそうになりました。
「‥‥いえ。以前は、確かもっと、バリバリのサラリーマンみたいなハキハキした印象でしたけど。」
夜の帳も深まり、夕暮れが名残なくすっかり覆い隠され、少なく見える星が瞬き始めた時分、お客様の客足も遠のいてしまい、閑古鳥になった店内と時計とを交互に睨みながら、閉めようかどうしようかと迷っている時分に、決まって彼は店の色硝子がはめ込まれた扉を音もなく開けたのです。
ネクタイこそ省いていましたが、きちんとスーツを着こなし、足下には革靴、高そうなブランドものの腕時計の嵌った手には使い込んだ革の鞄を持って、一日充実した仕事をした事が一目見てすぐわかるように、疲れてはいるものの、林檎のように頬を火照らせ、目をキラキラさせて、それでも何処か遠慮気味にカウンターには座らず、店の一番隅の席に座るのです。そして、開口一番、レモンスカッシュと言うのです。
「‥‥‥‥え? なに?」
話を聞いていたシゲさんが、ポカン空けた口から零れ落ちてきた僅かな言葉のように、僕が絞るレモンから果汁が滴りました。
「ですから、レモンスカッシュと‥‥」
「いや、そりゃわかる。だがな、その前に、この店にはレモンスカッシュなんて、ハイカラなもんがあったんか?」
シゲさんの問いに僕は一瞬考えました。確かにメニューには載ってませんし、やってますなんて事も言った事もありません。ましてや始めましたなんて言う気も更々なかった訳です。では、何故、この男性にだけ提供しているのでしょうか? 答えは簡単です。レモンティーで使わなかったレモンと、フロートが出ずに余ったソーダだけの有り合わせで出来るからです。ご存知の通り、レモンは鮮度が命。切ってから一日でも置いてしまうとそれだけで香りが損なわれてしまいますし、ソーダは開封したら最後、飲んでしまわないと炭酸が抜けてしまいます。しかも、うちで使っているソーダは炭酸好きの僕が作る自家製の為、あまり日持ちがしません。その日のうちに、その日の分だけを毎朝作るのです。けれど、いくら炭酸好きな僕でも、余っているものを毎日飲むのは飽きるのです。お客様に若い方が多ければ、クリームソーダや炭酸もよく出るのですが、お客様が少ない日等にはどうしても余ってしまうのです。それを見越して、少なく作ればいいのでしょうけど、時々無償に炭酸を飲みたくて堪らなくなる事があるので、念の為、いつも同じ量を作っておくのです。けれど、不思議な事には、この男性は、必ずレモンとソーダが中途半端に余ってしまって捨てようかどうしようかという時にピンポイントに現れてくれていたのです。なので、尚の事印象深かったのかもしれません。
そして、最近よく昼間からいらっしゃるその方の為に、僕はいつのまにか、レモン残りだのソーダの余りだのではなくて、その方用にたっぷりとレモンとソーダを常備しておくようになっていました。確かにシゲさんに突っ込まれてもおかしくはありません。
「俺も飲みたい」
近づいてくる夏を感じさせるような、琉球硝子の泡が閉じ込められた透明なレモンをたっぷり絞ったグラスに、ソーダを静かに注ぐのを見ながら、シゲさんがぼそっと呟きました。その呟き方がまるで子どものように見えてしまって、僕は又しても吹き出してしまいました。
「かしこまりました。すぐ、作りますから」
「最近、あの客、毎日いるなぁ」
眉間にどっちつかずな皺を微かに寄せて、口角にサンドイッチの粕をくっつけたシゲさんは、視線は部屋の隅に、存在感薄く座っている男性を捉えたまま、まるで腹話術みたいに口をほぼ動かさず、なんとも神妙な感じに言ってきました。その、ある意味では器用とも言える様子が、店内に流れているアヴェマリアとやけにリンクして、あまりにおかしかったので、僕はシゲさんの言葉の内容はそっちのけで、まじまじとシゲさんを見つめてしまった程でした。
「毎っ回思うんだけんども、あの客、いつ入ってきたっけか? いっつも気付くと、あすこに座っててさ。なんかよぉ、幽霊みてぇで気味悪ぃな」
どうやら幽霊だとかの類いが苦手らしく、シゲさんは若干顔を引きつらせたまま、その陰の薄い男性を見極めようとでもしているのか、将又、恐いもの見たさで目が離せない興味本位なのか、やはり視線を男性にじっと向けたまま腹話術を続けました。僕は、どうしてシゲさんがいつものように大声で大胆に話さないのかが不思議でした。相手が幽霊だからでしょうか? 自分が話している事が聞こえたらマズいとでも思っているものか、それとも自分が話したのがバレない為なのでしょうか? まぁ、どちらにしても‥‥
「色々と膨らんで、盛り上がっている所に水を差すようですが、あの方はれっきとした人間です」
僕がそう返すと、途端にシゲさんは安心したように表情を崩しました。それからすぐに、なぁんだと言わんばかりに、全然怖がってなんかいなかったぜ、むしろそう思ってたからなみたいな余裕のある顔を作ってみせましたので、僕は思わず吹き出してしまいました。
「ちっ。なんでぇ。吹かなくたっていいじゃねぇか。失礼じゃねーか」
「はは‥申し訳ありません。正直、シゲさんが幽霊の類いが苦手だった事が、意外で‥‥」
「いいじゃねぇかよ。悪ぃのかよ。俺にだって、苦手なもんの5つや8つくらいあるんだよ。いっくら万能な人間だってな、苦手なもんくらいあるわな。かの最強と謳われた戦国武将の織田信長だってな、ピーマンが苦手だったんだ。人間なんてそんなもんだ。」
「いやいや。織田信長がピーマン嫌いって、それ嘘でしょ。あの時代に、ピーマンはポピュラー食材じゃない筈ですよ。いくら僕が歴史が不得意だからってそのくらいわかりますよ。あの方は以前から、何度かご来店頂いているんですよ」
「あり。そぉなの? 全然気付かなかったな。そりゃ失礼致しました」
「まぁ、気付かなくても仕方ありませんよ。あの方、以前は仕事帰りにお寄り頂いていたのか、いつも閉店間際に来店されてましたから」
僕はそう言いながら、壁際に寄りかかるようにして腰掛け、何処か魂の抜けかかっているような男性を徐に見遣りました。メニューを広げて眺めてはいますが、実際には眼球にただ映しているだけで何も思ってはいなさそうでした。その証拠に、シゲさんが耳打ちをし始めた頃から一点をぼんやり見つめているだけで、微動だにしていなかったのです。
「それはいいんだけど。いつもあんな調子なの?」
今度は興味本位に手を添えて、小声で訪ねてきたシゲさんは、勢い余って、思わず飲みかけのカフェオレを倒しそうになりました。
「‥‥いえ。以前は、確かもっと、バリバリのサラリーマンみたいなハキハキした印象でしたけど。」
夜の帳も深まり、夕暮れが名残なくすっかり覆い隠され、少なく見える星が瞬き始めた時分、お客様の客足も遠のいてしまい、閑古鳥になった店内と時計とを交互に睨みながら、閉めようかどうしようかと迷っている時分に、決まって彼は店の色硝子がはめ込まれた扉を音もなく開けたのです。
ネクタイこそ省いていましたが、きちんとスーツを着こなし、足下には革靴、高そうなブランドものの腕時計の嵌った手には使い込んだ革の鞄を持って、一日充実した仕事をした事が一目見てすぐわかるように、疲れてはいるものの、林檎のように頬を火照らせ、目をキラキラさせて、それでも何処か遠慮気味にカウンターには座らず、店の一番隅の席に座るのです。そして、開口一番、レモンスカッシュと言うのです。
「‥‥‥‥え? なに?」
話を聞いていたシゲさんが、ポカン空けた口から零れ落ちてきた僅かな言葉のように、僕が絞るレモンから果汁が滴りました。
「ですから、レモンスカッシュと‥‥」
「いや、そりゃわかる。だがな、その前に、この店にはレモンスカッシュなんて、ハイカラなもんがあったんか?」
シゲさんの問いに僕は一瞬考えました。確かにメニューには載ってませんし、やってますなんて事も言った事もありません。ましてや始めましたなんて言う気も更々なかった訳です。では、何故、この男性にだけ提供しているのでしょうか? 答えは簡単です。レモンティーで使わなかったレモンと、フロートが出ずに余ったソーダだけの有り合わせで出来るからです。ご存知の通り、レモンは鮮度が命。切ってから一日でも置いてしまうとそれだけで香りが損なわれてしまいますし、ソーダは開封したら最後、飲んでしまわないと炭酸が抜けてしまいます。しかも、うちで使っているソーダは炭酸好きの僕が作る自家製の為、あまり日持ちがしません。その日のうちに、その日の分だけを毎朝作るのです。けれど、いくら炭酸好きな僕でも、余っているものを毎日飲むのは飽きるのです。お客様に若い方が多ければ、クリームソーダや炭酸もよく出るのですが、お客様が少ない日等にはどうしても余ってしまうのです。それを見越して、少なく作ればいいのでしょうけど、時々無償に炭酸を飲みたくて堪らなくなる事があるので、念の為、いつも同じ量を作っておくのです。けれど、不思議な事には、この男性は、必ずレモンとソーダが中途半端に余ってしまって捨てようかどうしようかという時にピンポイントに現れてくれていたのです。なので、尚の事印象深かったのかもしれません。
そして、最近よく昼間からいらっしゃるその方の為に、僕はいつのまにか、レモン残りだのソーダの余りだのではなくて、その方用にたっぷりとレモンとソーダを常備しておくようになっていました。確かにシゲさんに突っ込まれてもおかしくはありません。
「俺も飲みたい」
近づいてくる夏を感じさせるような、琉球硝子の泡が閉じ込められた透明なレモンをたっぷり絞ったグラスに、ソーダを静かに注ぐのを見ながら、シゲさんがぼそっと呟きました。その呟き方がまるで子どものように見えてしまって、僕は又しても吹き出してしまいました。
「かしこまりました。すぐ、作りますから」