珈琲日和 その16
「でも、仕事なんて、所詮は生きていく手段に過ぎないじゃないですか。それがなくなっただけで、あんな自堕落にまでなって。本当に母が言ったように力のある人間だったら、そんな事くらいでへこたれたりなんてしない。子どもだった僕には、どうして、毎日父が家でゴロゴロしてばかりいるのか、理解出来ませんでした。時間があるからといっても、僕と遊んでくれたり、何処かに家族を連れて行ったり、母の手伝いをしたりする訳でもなく。日がな一日なにをするでもなく。一体父は、何の為に働いてきたんだろうって子ども心に思いましたよ。家族の為じゃないのか?って」
「さぁ。私は、超能力者じゃないから、お父様の心情までは正確にはわからないわ。でも、一つだけわかる事は、お父様は家庭の中ではなくて、会社の仕事の中でだけ、自分を見出していたんじゃないのかしら」
「それは、家庭がうっとうしかったって事ですか?」
「いいえ。そうじゃないと思う。ただ、仕事は単純よ。私も以前大企業で営業をやってたから、少しわかるの。やればやった分だけ結果が出るし、個人を評価される。自分の居場所が生まれるような錯覚になるの。勿論、マスターがさっき言っていたように、仕事はあくまでも生きて行く為の手段だから、社長にでもならない限り、そこが全てって事にはならない。あくまで錯覚なのよ。でも、その錯覚に魅せられてしまうと、それが大きければ大きい程、なくなった時の失意感が大きく残るの。あんなに会社に貢献したのに、どうしてって。自分は誰よりも働いてきたのに、なんで?ってね、現実を受け入れられなくなるの。そうね、誰か大切な人が亡くなった時の感情に似てるわね」
「家族よりも仕事が大切だった?」
「うーん‥‥そうとも言えるし、そうとも言えないかもしれない。もしかしたら、お父様は、最初は、家族を養う為にがむしゃらに頑張っていたのかもしれない。それが、重役になるに従って考え方が変わってきたのかもしれないでしょ。権力と地位を伴う人間によくある事よ。だとしたら、そこで本当に大切なものを何処かに置き忘れてしまったのかもしれないわ。そして、置き忘れてしまった大切なものがなんなのかも忘れてしまった。だから、仕事という生活を占めていた物がなくなった時に、手元にはなにも残っていなかったんじゃない?」
そういえば、父は何かを探すように、お酒の入った瓶やグラスを持ち上げては日にかざして飲んでいました。その視線が僕たち家族に注がれる時にも同じでした。何かを僕達の中に探すように、自分の中に探すように。家の中でそれが探せなかった父は、だから外に出るようになったのかもしれません。しまいにはなかなか帰ってこないようになったのかもしれません。父が外でなにをしていたのかを僕が知る事はなかったのです。たった一度だけ、学校の帰りに知らない女の人と一緒に歩いていたのを見ただけで‥‥
結局、父は家族の中では何も見つけられなかったのだと、今になってわかります。そして同時に、そんな風に家族という大切なものを、薄情な仕事なんかの為に何処かに置き忘れてきてしまった父に怒りを覚えずにはいられませんでした。父のせいで、母があんな苦労を背負ったまま、悲しいだけの死に方をしたのだと。美和子さんが指摘するように、僕は父を許す事も出来ないし、大嫌いでした。美和子さんはそんな僕の様子を観察するように眺めながら、煙管の煙をゆっくりとたなびかせました。その煙はまるで、僕にそれでいいのと問いかけでもしているように、僕の周りをクネクネと漂いゆっくりと溶けていきました。
「でも、そのお客さんは、マスターのお父様じゃないのよ」
「わかってます」思い詰めていたせいか、そう吐き捨てるように言ってしまった事に気付き、急いですみませんと付け足しました。
「マスターは、お父様にどうして欲しかったの? 自分と、もっといて欲しかった?」
「‥‥‥わかりません」
「じゃあ、そのお客さんには、どうして欲しい?」
「そのお客様のなさりたいようになされば、いいと思います」
「そのお客さん自信、自分のやりたい事が、わかっていなかったら?」
「それは‥‥」
「物事はどんな大きな事でも、そこに辿り着くまではすごく小さい事の積み重ねよ。だけど、その小さな事すら思いつかない、考えられない状態の人が目の前にいて、マスターはどうする? ただ見守る? それもある意味では優しさだとは思うけど、果たしてどうかしら?」
容赦ない美和子さんの質問攻めで、情けなく考え込むしか出来ない僕は、そこまで言われてやっと一つの答えを導き出しました。
「僕に出来る精一杯で、手を差し伸べたいです」
「なら、そうすればいいわ。こんな感じでいいかしら? そろそろ、美和子の相談所は閉館のお時間でーす。ジョンソン、オーダーこっちに頂戴」
いつのまにやら、考え込んでいてちっとも周りが見えていなかった僕の両隣もテーブル席も満席でした。美和子さんはジョンソンさんから廻された複数枚のオーダー票を睨みながら、機械仕掛けの人形のように正確に無駄がない動きで、忙しくカクテルを作り始めました。僕は申し訳なかったなと思い、そっとお会計をジョンソンさんに渡すと、僕は店を後にしました。
「あの、良ければ、ここで働いてみませんか? 次の仕事が決まるまでの暇つぶしみたいな感じで構いませんので」
お客様でいらっしゃった方を働いてくれなんてスカウトしたのは、これが最初で最後でした。レモンスカッシュを前にした彼は、吃驚したように僕を見上げていました。歳の頃、34、5くらいでしょうか? これからまだまだの働き盛りのようなしっかりとした体つきをした彼は、照れくさそうに鼻の下を何度か指で擦りました。短髪に、生え始めた無精髭が目立ち、よく見ると、中にワイシャツを着ていました。しきりに瞬きをしてはいましたが、切れ込んだ奥二重の目には嬉しさが滲んでいました。
「ありがとうございます。気を使って頂いて申し訳ない。そうですよね。昼間っから、目立ちますよね」
「いえ。そんな事じゃないんです。ただ‥‥」
「情けない事に、最近、長く勤めていた会社を首になっちゃったもんで。はは。これからどうしたらいいもんか、有給を消化しながら途方に暮れていました。幸いというかなんと言うか、私には養うべき家族もいないもので、こうして一人で日がな時間を潰しているんです。お恥ずかしい事に、今まで仕事以外にやる事も見つけられず、仕事だけの生活をしてきてしまったせいか、仕事がなくなった何も出来ない、守るものも何もない無力な自分という現実を、嫌という程思い知らされまして。益々自信が湧いてこなかったのです」
彼は気恥ずかしそうに頭を掻きながら、無理に笑顔を作って話していました。僕はそんな彼を見ていて、もしかしたら、父も家ではなく他の場所でこんな事を誰かに打ち明けていたんじゃないのかと思ったのです。