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情欲の檻~私の中の赤い花~

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 彼女は美華子と同じ歳だと聞いている。高校を卒業して建築会社の事務職として働いていたが、二十歳で結婚し、今は八歳と三歳の女の子の母となっているそうだ。
 彼女自身はこの街ではなく、東北の方から嫁いできたが、夫となった男性がこのI市出身だったため、結婚してから暮らしていた東北の地方都市から五年前に家族で引っ越してきたという。
 彼女には申し訳ないけれど、実は名前もよく憶えていないほどだった。彼女が生け花教室に通っているのは去年の春からだが、話しかけられて話をするようになったのは今年で、しかも、彼女はそれからすぐに三人目の妊娠が判って、体調不良でずっと休んでいたからだ。
「あら、こんばんは。お身体の具合はもう良いの?」
 しかし、美華子もだてに八年もOLをしていたわけではない。相手に合わせて礼儀を失さない程度に会話くらいはできる。
 向こうは美華子の本心などまるで気づいていないように、屈託ない笑みを返してくる。これには、いささか不人情な自分が申し訳なくなった。
「ええ、ご心配をかけてしまって。お陰様で、もうすっかり良いの。私って、どうしても妊娠初期に流産しかかってしまう傾向があって。それでずっと自宅で安静にしていなければならなかったから」
 そういうのを切迫流産というのだと聞いたことはある。I社で同期の爽菜もやはり妊娠初期は切迫流産で入院したことがあり、見舞いに訪れたこともあったからだ。
「それは良かったわ。そういえば、お腹、もう大分目立つのね」
 改めて見ると、彼女の腹部はもうこんもりと膨らんで、誰が見ても妊婦と判るくらいになっている。ここまで来れば、流石に流産の心配もないのだろう。
「今、六ヶ月に入ったところなの。今度は男の子ですって。主人も一緒に暮らしているお義母さんも歓んでくれて」
 と、彼女は聞きもしないことまで喋る。
「それはおめでとう。娘さん二人の次が男の子だったら、皆さん、歓ぶわね」
 と、またもや笑顔で返すが、内心は辟易していた。
 幸せな人ほど、他人の不幸や哀しみ、痛みには鈍感になるものだというけれど、どうやら、それは本当のことらしい。向こうは同じ歳のよしみで親しげに話しかけてくるのだろうが、こちらは正直、名前さえ憶えていないほど、彼女の印象は薄かった。
「これから帰りなの、一ノ瀬さん」
 彼女は以前、記憶にあるよりも少しふっくらとした顔をほころばせた。
「私、車で来ているのよ。良かったら、お家まで送っていくわ」
 冗談ではない。車中で延々とお腹の子の話や家族の話題を持ち出されるかと考えただけで、ゾッとする。
 狭量なのは判っていたが、こんな心境のときに、他人の幸せな自慢話に平気な顔でつきあえるほど人間ができてはいない。
「いいえ、とんでもない。気持ちは嬉しいけど、妊婦さんに送って貰うだなんて、申し訳なさ過ぎるもの。家でお嬢さんたちも待っているでしょうし、あなたも気を付けて早く帰ってあげてちょうだい」
 慌てて言ったまさにその時、バッグの携帯が鳴った。
 彼女が小首を傾げる。
「あら、電話?」
 まったく、お節介な女。内心舌打ちしたい想いを堪え、美華子は携帯を取り出した。
「メールみたい」
 と、彼女にも聞こえるように呟き、笑顔を向けた。
「それじゃ―」
 何気なく送られたメールを覗き込んだ瞬間、顔から血の気が引くのが自分でも判った。
―死ね。他人の男を横取りするような女は死んでしまえ。
「どうしたの? 顔が真っ青よ」
 彼女の丸い顔に愕きがひろがっている。今、よほど自分は酷い顔色をしているのだろう。
「あ、大丈夫よ。じゃあ、気を付けて帰ってね」
 美華子はそれでも精一杯の笑顔を拵え、彼女に背を向けた。数歩あるいたところで、また着信音が鳴った。恐る恐るメール画面を開くと、
―私の彼を返して。
 今度は、先刻と打って変わった哀願口調のメールが届いていた。が、内容からすれば、同一人物が送りつけてきたものであろうことは容易に想像できる。念のためにメルアドを確認したところ、二通とも同じものだ。
 ただし、これはフリーメールだし、こんな脅迫とも嫌がらせともつかないものを送るからには棄てアドを使っているのは間違いなかった。
「馬鹿げてるわ」
 言いかけて、美華子はハッとした。三日前の出来事がふと脳裏に甦ったからだ。
 ホテルのバーで見た光景がまるでドラマを再生するかのように瞼に描き出される。
 スツールに掛けて、誰かと熱心に話していた祥吾の後ろ姿。何故、あの光景が突如として浮かんできたのかは判らない。今のところ、美華子にとって恋人と呼べるのは祥吾だけだから、このメールが祥吾の拘わっている女からのものだというのは納得できる。
 しかし、このメールを寄越した女と、三日前の夜、祥吾がスマホで話していた人物が同じかどうかなんて、正直確証は持てないはずだ。
 なのに、今、この瞬間、美華子はこのメールを送ってきた女があの夜の女と同じだと妙な確信を持てた。それは動物的な勘とでもいえば良いのかどうか。
 だが、美華子は今回もまた無理に自分に思い込ませようとした。いいえ、こんなくだらないメールを送ってきたのは、どこの誰とも知らぬ女に決まっている。間違っても、自分にも祥吾にも拘わりはない、まったくいわれのない言いがかりをつけてきたにすぎないのだ。
 もしかしたら、男にフラレて失意のあまり、頭のイカレた女が送りつけてきたものかもしれない。美華子は嫌々をする子どものように首を振り、携帯を畳むとバッグに放り込んだ。
「馬鹿ね」
 また同じ科白を繰り返す。しかしながら、馬鹿なのは、どちらなのだろう。ここまで状況証拠が揃いながら、まだ祥吾を信じようとする自分? こんなメールを送りつけてくる見知らぬ女?
 美華子は唇を噛みしめると、ヒールの音を響かせてアスファルトの道を歩き始める。そんな彼女の前を、白い軽自動車がゆっくりと追い越して通り過ぎていった。
 運転席にいるのは、例の名前を忘れてしまった妊婦だ。
 美華子はやり切れない想いで溜息をつく。同じ二十八歳、夫に愛され、既に三人目の子の母となろうとしている幸せな女と、三年間もつきあった恋人に棄てられようとしている女。この違いは何なのだろう。
 先刻の妊婦を思い出す。特に美人でも可愛いわけでもない。もしかしたら、自惚れかもしれないが、自分の方が少しはマシかもしれない。にも拘わらず早々と結婚して、三人もの子どもに恵まれている彼女。あの女と比べて、自分のどこが劣っているというのか。
 運命の神さまはあまりにも理不尽だ。自分は別に悪いこともしてないし、ただ真面目に生きているだけなのに。祥吾は確かに多情な男だけれど、今のところ妻子持ちというわけではなく、彼との交際は不倫ではない。つまり、彼と拘わっていることで、誰かを不幸にしたり哀しませたりすることもしてない。
 仕事もそれなりにやっているし、生まれてこのかた二十八年間、たいして良いこともしてこなかった代わりに、悪いことをした自覚もないのだ。誰かを泣かせてもいないし、憎まれているとも思えない。