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情欲の檻~私の中の赤い花~

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 それらの事実は、祥吾から聞いたものである。こういう話を美華子に話して聞かせるということ自体がはや、祥吾という男の人間性を疑わしいものに思わせるのだが、当時、美華子には、自分は祥吾にとって特別な存在だからこそ、彼が正直にすべてを打ち明けてくれたのだと良い方に解釈した。
 人とは何でも自分の都合の良い方に理解したがる生きものである。その方が気持ちも楽だからだ。
 そして、その頃、祥吾はその浮気相手の女子大生と逢うために、美華子との約束をすっぽかすことがあった。そんなときには、彼は決まって下手な言い訳しながらネクタイを引っ張っていた。
 もっとも、あれが浮気と呼べたのかどうか、今となっては美華子には判らない。何しろ、今の自分に対する彼の仕打ちを見れば、まさに美華子との関係も?遊び?の域を出ないものだからだ。遊びというのは、結局、浮気だろう。その女子大生だけでなく、恐らく、そういった男女の事には疎い自分が気づかなかっただけで、祥吾はこの三年、自分以外にも何人かの女と関係を持ったに違いない。
 その戯れの恋、関係のどれが浮気で、どれが本気なのかを?遊びの恋?の対象にすぎない自分が知るはずもない。いや、恐らく、彼が拘わり合ったすべての女たちが自分こそは彼の本命だと信じ込まされたのかもしれない。そういう意味で、祥吾は文字通り、女を手なずけることには長けた、立ち回りの上手い男だった。
「本当に悪いな。この埋め合わせは今度、近い中に必ず、な」
 祥吾は相変わらず不自然なほどの早口で言い、美華子に近づくと、額に軽く口づけを落とした。
 刹那、美華子は自分でも信じられない行動に出た。祥吾の背に自らも両手を回し、力一杯抱きしめたのだ。小柄な美華子はいつもつま先立ちしなければ、祥吾とは同じ眼線になれない。いや、つま先立ちしたって、敵いっこないほど祥吾は上背があるのだ。
 今、美華子は精一杯伸び上がり、祥吾を引き寄せて、その唇に自分の唇を押し当てた。
タクシーの運転手は車内にとどまったままだが、もしかしたら、見えているかもしれない。しかし、この際、そんなことは問題ではなかった。どうでも良い。ただ、この男の心を私につなぎ止めておけるならば。
 しっかりと唇を合わせて口づける。彼の心をこれから行こうとする女の許にはゆかせず、ここに引き止めるかのように。
「―っ」
 そのキスは祥吾が引きはがすまで、続いた。
「人前だぞ?」
 無意識の仕種ではあろうが、祥吾は手の甲で唇をしきりにこすっている。
 ふいに美華子の中を言いようのない哀しみがよぎった。このホテルの一室で彼が美華子を幾度も奪ったのはまだほんの少し前のことにすぎない。幾度も身体を重ね、彼は美華子の下半身を自らの舌で慰めもしたのだ。
 そこまでしておきながら、唇を重ねるというだけの行為が彼には薄汚いもの、無意識とはいえ、唇を拭いたくなるほど汚らわしいものだというのか!?
 もっとも、彼にとって閨の中での行為はすべて女を意のままに翻弄する手練手管(テクニツク)にすぎないのだろうから、そこに何らかの気持ち―感情を求めても無駄なことだ。
 そう、こんなときでさえ、自分はこの卑劣漢に愛情を求めている。こんな男には愛情どころか、気持ちの片鱗さえ求めてはいけないと判っているのに。
 美華子は半ば祥吾に押し込まれるようにして、タクシーに乗り込んだ。
 茫然としている間に、車が発進する。美華子は思わず振り返らずにはいられなかった。だが、恋人の姿はあっと言いう間に見えなくなり、タクシーは地下駐車場を出た。
 美華子は自分が今、タクシーに乗り込み、たった一人で深い底なしの闇の中を走っているような錯覚に囚われた。ホテルのバーから見た街の夜景はきらびやかで、あたかも光の球を連ねたかのように灯りがまばゆかった。だが、今、周囲を取り巻く光景は一面の闇ばかりで、小さな灯りすら見当たらない。
 だが、と、美華子はともすれば、周囲そのままに闇の色に染まりそうな己れの心を叱咤した。
―祥吾さんは、自分から私に口づけたじゃないの。
 恐らくは、あの別れ際の軽いキスも女の心を一時的に紛らわせるためのものであったに違いない。幾ら楽観的に考えようとしても、そう思わざるを得ないほど、おざなりな心のこもっていないキスであった。
 そんな相手に対して、自分はまだ希望を持とうしている。この救いようのない状況にさえ、活路を見出そうとしている。その事実に今更ながらに愕然とするともに、情けなさのあまり、ともすれば涙が出そうになる。
 美華子はシートに深く身を埋めながら、眼を瞑った。疲れた、もう眠りたい。どこか誰も自分を知らない場所に行って、何もかも忘れて永遠に眠ってしまえたら。
 ふと、そんな祈りにも似た願望が湧き上がる。美華子がしばらく経って閉じていた眼を開いた時、漸く車は大通りに出たらしく、街の灯りが両端を掠めてゆくようになった。腕時計を覗き込むと、時計の針は十時前になっていた。
 いつもなら十一時過ぎに自宅に着く。その時刻なら、間違いなく両親は寝ているはずだが、今の時間はまだ起きているかもしれない。こんな気持ちのままで親の顔を見るのは辛かった。できれば、今夜はこのままベッドにもぐりこんで眠ってしまいたい。
 と、眼の前で黙々とハンドルを握っている運転手の存在に気づく。それまで意識していなかったけれど、運転手は丁度父と同じ歳くらいの男性だ。職業柄、話しかけられれば愛想よく受け答えはするのだろうが、自分から立ち入った話題をふってくることはないのだろう。
 バックミラーに映る老いたドライバーの顔がふと父に重なった。この男にもやはり、自分と同じ歳くらいの娘はいるのだろうか。
 美華子がそんなことを考えている中に、車はいつしか自宅の近くに差し掛かっていた。

Memories?

 それから二日経った。その日は水曜で、美華子は会社帰りに自宅近くの公民館に寄った。月に二度、生け花のカルチャースクールがあり、そこに通っているのだ。
 自宅からI社までは徒歩でも二〇分程度なので、運動もかねて歩いて通っている。公民館は丁度、その途中にあるので、会社帰りに寄るにはもってこいである。
 教室は六時から八時までとなっているが、生徒も主婦や美華子のようなOL、様々な人が集まっているため、いつでも都合の良い時間帯に来ても良いことになっている。講師は生け花界でも名の知れた人で、三十代後半の和服に合う美しい女性である。
 その日は季節の花らしく、カラーとカーネーション、紫陽花を活け、六時過ぎに来た美華子が終わったのは七時を少し回った時間だった。真っ白なカラーと薄蒼の紫陽花、鮮やかなピンクのカーネーションは色彩のコントラストが鮮やかだ。
 これを持ち帰って玄関に飾れば、殺風景な家も少しは華やかになるだろうかと考えると、沈みがちだった心が少し明るくなった。
 公民館は今風の造りではなく、いかにも昭和を思わせる二階建ての鉄筋コンクリートだ。玄関を出た時、顔見知りの女性が親しげに声をかけてきた。
「一ノ瀬さん、久しぶり」